よみもの・連載

雌鶏

第一章2

楡周平Shuhei Nire

「てめえら、何やってやがんだ!」
 間違いなく清彦の声だ。
 貴美子は息を大きく吸った。そして激しく咳(せ)き込んだ。それでも、上半身を起こすと叫び声が聞こえた方向に目をやった。
 咳き込む度に、涙が出て視界がぼやけたが、すぐに状況は把握できた。
 どうやら清彦は、最初に貴美子のモンペを脱がしにかかっていた男を蹴り上げ、ついで首を絞めていた男の襟首を摑んで上体を起こし、拳で殴りつけたらしい。
 それが証拠に蹴り上げられた男は腹部を抱え、もう一人は鼻っ柱を殴られたらしく、早くも鼻血が流れ出している。
 清彦は腹部を抱えて苦悶の表情を浮かべる男に飛びかかり、馬乗りになると、二度、三度と顔面を殴りつけた。しかし相手は兵士である。それも栄養満点の米軍兵だ。
 太い腕で防御するものだから、清彦の拳は中々顔面に命中しない。そうこうしているうちに、鼻血を出していた男が立ち上がり、もう一人の男を殴り続ける清彦に背後から飛びかかった。
 狭い調理場で三人の男が取っ組み合うものだから、その破壊力は凄まじい。鍋が飛び、床にぶち当たって派手な音を立てる。食器棚が破壊され、中に収納されていた丼が飛び出し、砕け散る。
 ただでさえ狭い調理場は、あっと言う間に空襲後のような惨状に変わった。そして米兵二人に対して、海軍上がりとはいえ主計士官一人の戦いは、早くも決しようとしていた。
 ほどなくして、清彦は背後から羽交いじめにされ、もう一人の男に顔面を一方的に殴られるだけとなった。
 そして兵士の拳が顔面を捉える度に、湿った音がし、清彦の口や鼻から血飛沫(ちしぶき)が飛んだ。
 それでも清彦は貴美子に目を向けると、
「早く逃げろ! 貴美子、逃げるんだ!」
 と叫んだ。
 しかし、体が反応しない。
 逃げなければ、助けを呼ばねばと思う一方で、清彦を置いて一人逃げるわけには行かないと貴美子は思った。この場を離れてしまったら、清彦は殺されてしまうのではないか。二度と言葉を交わすことすらできなくなってしまうのではないかと思ったのだ。
「何やってんだ! 逃げろってば!」
 再度促されても、貴美子は動けなかった。
 清彦が最後の抵抗を試みたのはその時だ。
 背後から羽交いじめにしている男の顔面に、己の後頭部で頭突きを食らわしたのだ。
 グシャ……。
 頭突きは見事に命中し、鼻が潰れる鈍い音がした。
 男が悲鳴を上げて顔面を両手で覆ったおかげで、自由になった清彦が、勢いをつけて、顔面を殴りつけていた男に飛びかかる。二人の男が床の上でもつれ合う。
 しかし、またしても米兵が優勢になるまでに、然程(さほど)の時間はかからなかった。
 拳を喰(く)らい続けた清彦のダメージは甚大で、格闘を続けるだけの体力が残っていなかったのだ。

プロフィール

楡 周平(にれ・しゅうへい) 1957年岩手県生まれ。米国系企業在職中の96年に書いた『Cの福音』がベストセラーになり、翌年より作家業に専念する。ハードボイルド、ミステリーから時事問題を反映させた経済小説まで幅広く手がける。著書に「朝倉恭介」シリーズ、「有川崇」シリーズ、『砂の王宮』『TEN』『終の盟約』『黄金の刻 小説 服部金太郎』など。

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