よみもの・連載

雌鶏

第一章2

楡周平Shuhei Nire

 そろそろ清彦が帰ってくる時刻である。
 てっきり清彦だと思い、
「おかえりな──」
 入口に目を遣ったところで、貴美子はその先の言葉を呑(の)み込んだ。
 そこに、二人のアメリカ兵が立っていたからだ。
 年齢はまだ三十にも達してはいまい。カーキ色の軍服を着用しているところからすると陸軍である。
 終戦後程なくして日本に進駐してきたアメリカなど連合国軍は、日本全国の主要都市にキャンプを置いた。中でも駐留兵が突出して多いのは、もちろん東京なのだが、日本国民はアメリカとの圧倒的な物量差をまざまざと見せつけられることになった。
 もちろん、キャンプ内に立ち入ることはできないが、闇市には米軍の横流し品を販売する店が少なからずあった。
 蓋を開ければ、そのまま食せる缶詰の中身は、シチューや肉入り麺が入った豪華なもので、これがCレーションと呼ばれる戦闘糧食だというのだから驚く。チョコレートやビスケットといった菓子類、石鹸(せっけん)や薬と横流し品は数多あるのだが、いずれにしても食料の入手にすら困窮している日本人からすれば夢のような贅沢品。文字通り垂涎(すいぜん)の的以外の何物でもない。
 もっとも菓子の類を日本人の子供に分け与える米兵も少なからずいたのだったが、大人相手となるとそうはいかない。
 特に女性の場合、金がなければ体となるわけで、実際止むに止まれず、体を売る女性も決して少なからず存在した。俗に「パンパン」と呼ばれる女性がそれなのだが、夜の街に出れば、米兵と腕を組み、嬌声(きょうせい)を上げながら一緒に歩く若い日本人女性の姿は、もはや日常的な光景である。
 しかし、こんな小さな食堂を訪れる米兵の姿は見たこともないし、聞いたこともない。いや、そもそも訪れる理由などないはずなのだ。
 しかし、目的を訊ねようにも、戦中を通して英語は敵性語とされ、一切教育を禁じられていたこともあって単語すらも浮かばない。
 どう対応したものか皆目見当がつかず、貴美子はその場に立ち尽くしてしまった。
 だが、言葉は通じなくとも、人の感情は表情に現れる。そして、二人のいずれの目にも同じ表情が浮かんでいるのに気がついた時、貴美子は途轍(とてつ)もない恐怖を覚えた。
 敵意ではない。殺意でもない。獲物を見つけ、これから屠(ほふ)る。それも淫靡(いんび)、かつ残虐な光が浮かんでいたからだ。
 そう言えば……と貴美子は思った。
 店は都内から品川に続く幹線道路に面しており、進駐軍の車両が頻繁に通る。
 開店後間もない頃から、店の前を掃除している際に、ジープに乗る米兵が車上から声をかけてきたり、口笛を吹いてきたりすることが度々あった。ツルからは、「さっき米兵が、貴美子ちゃんを気持ちの悪い目で見ていたよ」と不安げに言ったこともあったのだ。
 事実、一部の米兵の狼藉(ろうぜき)ぶりは目に余るものがあって、終戦直後の闇市では若い日本人女性が強姦(ごうかん)の被害に遭うのは珍しい話ではなかった。

プロフィール

楡 周平(にれ・しゅうへい) 1957年岩手県生まれ。米国系企業在職中の96年に書いた『Cの福音』がベストセラーになり、翌年より作家業に専念する。ハードボイルド、ミステリーから時事問題を反映させた経済小説まで幅広く手がける。著書に「朝倉恭介」シリーズ、「有川崇」シリーズ、『砂の王宮』『TEN』『終の盟約』『黄金の刻 小説 服部金太郎』など。

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