よみもの・連載

雌鶏

第一章2

楡周平Shuhei Nire

 米兵が仰向けになった清彦に馬乗りになって、顔面に二発、三発とパンチを見舞う。
 その度に清彦の顔面が激しく揺れる。それでも清彦は反撃に出ようとするのだが、もはや防御すらままならぬと見えて、その腕が床に落ちた。
 その時貴美子は、清彦の指先が包丁に触れるのを見た。
 調理場が破壊される間に、床に転げ落ちてしまったらしい。
 ついさっき、研ぎ上げたばかりの包丁、それも先端が尖(とが)った舟行包丁である。
 指先に触れた物が包丁という認識が清彦にあったのかどうかは分からない。とにかく手に触れたものを武器にしようと無我夢中であったのだろう。
 次の瞬間、包丁を引っ摑んだ清彦が、馬乗りになっていた男の喉元を突いたのだ。
 男の動きが一瞬にして止まった。
 かっと見開いた目の中に焦点が定まらぬ瞳が見えた。それはたちまち、上瞼の中に隠れて行き、半分ほどになったところで、ゆっくりと背中から倒れ始めた。
 清彦は包丁を離さなかった。だから、男の上体がのけ反り始めたところで、喉から包丁が抜けた。瞬間、気管から空気が漏れる音と共に、鮮血が驚くほどの勢いで噴き出した。
 凄まじい悲鳴を上げたのは、鼻を折られたもう一人の兵士である。
 次いで命乞いをするかのように、床に上体を起こした姿勢のまま、差し出した両の掌(てのひら)を左右に振る。
 清彦が、ふらつきながらも、緩慢な動作で立ち上がる。
 吹き出した血液をもろに浴びた清彦の顔は真っ赤に染まっていた。
 腫れ上がった瞼、唇もさることながら、清彦が激しい怒りに燃えているのは明らかだった。その形相は、まさに鬼そのものだ。しかも腫れ上がった瞼から覗く瞳に浮かんでいるのは、間違いなく殺意である。
 必死に命乞いを始める兵士、涙を流し、啜(すす)り泣きしながら、床に座り込んだ姿勢で、じりじりと後退(あとずさ)り清彦と距離を置こうと試みる。
 しかし、清彦に言葉を発する気配はない。
 腫れ上がった瞼を見開き、米兵の顔を睨(にら)み付けると、小首を傾げ「はあっ……」と息を吐いた。
 清彦の殺意の確かさを悟ったものか、米兵は体を捻(ひね)って立ち上がると、中腰の姿勢で逃げ出そうとした。
 清彦は逃さなかった。
 おそらくは、残る力の全てをその一瞬に投じたのだろう。
 素早く動き、米兵の背中に向かって己の体を渾身(こんしん)の力を込めてぶつけた。
 その手に、舟行包丁が握られているのが、貴美子にははっきりと見て取れた。
 二人の体がぶつかった瞬間。米兵が凄まじい悲鳴を上げた。
 腰よりも少し高い位置だから、おそらく、包丁は肝臓を突き刺したのだろう。
 再び、悲鳴が上がったが、もはやその声に力はない。
 米兵は、その場に膝から崩れ落ちると、うつ伏せの状態で倒れた。
 包丁は突き刺さったままで、出血は驚くほど少ない。
 小さな痙攣(けいれん)を繰り返す、兵士の顔から、瞬く間に血の気が失せていく。
 清彦は仁王立ちになって兵士を睥睨(へいげい)するかのように見下ろすと、
「ふざけやがって……」
 唾棄するように言い、持てる力の全てを使い果たした様子で、その場にへたり込んだ。

プロフィール

楡 周平(にれ・しゅうへい) 1957年岩手県生まれ。米国系企業在職中の96年に書いた『Cの福音』がベストセラーになり、翌年より作家業に専念する。ハードボイルド、ミステリーから時事問題を反映させた経済小説まで幅広く手がける。著書に「朝倉恭介」シリーズ、「有川崇」シリーズ、『砂の王宮』『TEN』『終の盟約』『黄金の刻 小説 服部金太郎』など。

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