よみもの・連載

雌鶏

第一章2

楡周平Shuhei Nire

 果たして二人は、薄ら笑いを浮かべながら、じりじりと距離を詰めて来る。
 叫び、助けを求めようとしたのだが、恐怖のせいか声が出ない。
 突然、一人の男が歩調を早め、猛然と距離を詰めて来た。
 貴美子は踵(きびす)を返し、調理場の奥にある食料庫に逃げ込もうとした。
 しかし、手元がおぼつかず、引き戸がうまく開けられない。それに、店といってもにわか造りのバラック同然の酷い代物で、立て付けが悪いこともあった。二度三度と引いているうちに、背後から襟首を摑(つか)まれた貴美子は引き倒されて床の上に仰向けにされてしまった。
 兵士が口々に言葉を発するのだが、内容はもちろん理解できない。それでも、二人の興奮ぶりは分かるし、発している言葉だって意思の疎通を図るというより、自らの蛮勇を奮い立たせるものであるように貴美子には思えた。
 店は労働の場だ。しかも真冬である。
 防寒は洋装よりも和装のほうが融通が利くので、貴美子は重ね着した和服とモンペを着用していた。
 もちろん貴美子が激しく抵抗したこともあったのだが、どうやら、和服の扱いには不慣れであるらしく、二人は着衣を脱がせようと試みるのだが、なかなかうまく行かない。
 そのうち焦(じ)れた米兵が、貴美子の上に馬乗りになると、顔面を拳で殴り、首を絞め付けてきた。
 口の中に生温かい液体が溢れてくる感覚があった。鉄の味がするところからして、明らかに血液である。首を絞める米兵の手に力が籠る。もう一人の米兵の手は、モンペにかかり、紐(ひも)を解(ほど)こうとしているのが分かった。
 それでも抵抗を試みようとしたのだが、首を絞められた直後から、顔面が急速に熱を帯び、同時に意識が薄れていく。
 涙が零(こぼ)れた。ここで殺されてしまうのかもしれない、と思った。いや、こんな辱めを受けるのなら、殺して欲しいとさえ思った。
 顔面が熱い……。息ができない……。体に力が入らない……。
 それでも貴美子は、最期の時を迎えるのなら、仇(かたき)の顔をしっかと脳裏に焼きつけてからと、かっと目を見開いた。
 やはり年齢は定かではないが、細面の顔いっぱいにソバカスが浮かんでいるところを見ると、思ったよりも若いのかもしれない。赤毛、碧眼(へきがん)、食い縛った歯が、薄い唇の間から覗いている。石鹸か、あるいはコロンか、甘い香りが男の体から匂ってくる──。
 と、その時だった。
 その顔が激しく揺らぎ、首から男の手が離れた。
 男の体が吹き飛び、何かに激突する物音が聞こえ、同時に悲鳴と罵声が狭い店内に交錯した。

プロフィール

楡 周平(にれ・しゅうへい) 1957年岩手県生まれ。米国系企業在職中の96年に書いた『Cの福音』がベストセラーになり、翌年より作家業に専念する。ハードボイルド、ミステリーから時事問題を反映させた経済小説まで幅広く手がける。著書に「朝倉恭介」シリーズ、「有川崇」シリーズ、『砂の王宮』『TEN』『終の盟約』『黄金の刻 小説 服部金太郎』など。

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