よみもの・連載

初恋父(と)っちゃ

第十六回

川上健一Kenichi Kawakami

「え?」
「バカで思い出した」
 とニット帽の女はいった。「楽しく笑って生きるにはテクニックがいるからバカじゃできないってのはそうかもね。函館出身の喜劇界の大御所だった益田喜頓(ますだきいとん)さんが『喜劇はバカじゃできません』っていってたわ。これってテクニックがいるってことよね。そうでしょう?」
 とニット帽の女は小澤を振り向いた。
 小澤は沈み込む途中という格好で頭が深く傾(かし)いだまま寝息を立てていた。それが賑々(にぎにぎ)しいパーティーの終了ゴングとなった。ジーンズ女が、「あら一人ダウンしちゃったア。じゃあ今日はもうお終(しま)いイ。さあ明日もあるから私たちも帰って寝ようかア」
 とニット帽の女とへの字目笑顔の女を促した。山田がこれも何かの縁だからどこかでもう一杯、と誘いかけると、
「ダメ。私たちはもう帰って寝るの。ママのコスプレたっぷり堪能したしイ、それにまたどこかでバッタリ会うかもしれないじゃないイ? 二度あることは三度あるっていうからさア。でも未来はどうなるか誰にも分かんないけどね。あ、そうだわ! ねえあんたア」
 とジーンズ女は山田にいった。「いつだってこの瞬間だってエ、目の前に広がる予測不能な未体験ゾーンが待っているっていうのが生きている楽しみよ。いいことも悪いこともある。でも感動も感激もそこにある。じゃないイ? さよならア、楽しかったわア。もしかしたらまたどっかでねえ、バイバイ」
 と未練のかけらもなくあっさり立ち上がった。しかし意地の悪い感じではなかった。その証拠に山田にウインクを飛ばしていた。そして三人の女たちは連れ立って席を立ってしまった。への字目笑顔の女が水沼と山田に失礼しますと丁寧に別れの会釈をしてからドアに行きかけ、また水沼を振り向いた。そして何かをいった。しかし水沼には聞き取れなかった。小さな声だったし、店内に響き渡る若い女が歌うJポップスのカラオケにかき消されてよく聞こえなかった。お元気で、といったのかもしれない。あるいは初恋の人に会えますように、といったのかもしれなかった。何といったのか分からなかったが水沼は笑顔を作ってうなずき返した。それから彼女がドアの向こうに消えるまで見守っていた。初めて出会った道東自動車道のパーキングエリアで別れた時のようにやはり名残惜しかった。見る者の心を弾ませる笑顔も声もしぐさも、全てがやさしさに包まれて調和がとれていた。彼女はおぼつかない足取りのニット帽の女の腕を支えてやりながら店を出ていった。
 彼女たちが行ってしまうと水沼は大きな欠伸(あくび)をした。疲れが襲ってきて吐息をひとつ。目蓋が重かった。

プロフィール

川上健一(かわかみ・けんいち) 1949年青森県生まれ。十和田工業高校卒。77年「跳べ、ジョー! B・Bの魂が見てるぞ」で小説現代新人賞を受賞してデビュー。2002年『翼はいつまでも』で第17回坪田譲治文学賞受賞。『ららのいた夏』『雨鱒の川』『渾身』など。青春小説、スポーツ小説を数多く手がける。

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