よみもの・連載

初恋父(と)っちゃ

第十六回

川上健一Kenichi Kawakami

 水沼はホテルに帰って寝ると山田に告げた。山田が本社の営業部長なのか子会社の役員なのかという疑問がくすぶっていて確かめたかったが、眠いのと疲れでどうでもよくなった。明日になってから問い質(ただ)してもいいことなのだ。まずはタクシーを呼んで小澤を運び出し、一緒にホテルへ連れて行ってベッドに倒れ込む。フカフカのベッドへ。山田はもう少し店に残るといった。ママと話があるし、それに夏沢みどりの消息を調べてもらっている人から連絡があるかもしれないというのだった。水沼はホテルに確保した二つの部屋のうちの一方のカギを渡した。それからオードリー・ヘプバーン・ママにタクシーを呼んでもらった。

 タクシーがホテルに到着すると、水沼は正体をなくした小澤を座席から引き剥がし、外へと引っ張りだした。エントランスからロビーへと進み、念のため警察や特捜部関係らしき人物がいないかと見回した。山田が北海道に行ったことは航空券で知られているはずだから、各地の宿泊施設を捜査しているだろう。ロビーのどこにもそれらしい人影は見えなかった。エレベーター、そして三階の端の部屋まで、小澤を押したり、引きずったり、抱き抱えたり、肩を取って担ぎ上げたりしながら運んだ。小澤をベッドに放り出してから、やれやれと隣のベッドに腰を下ろした。深呼吸をして一息つく。小澤は脚を縮めて横向きになり、右腕を頭の上に、左腕を真横に放り出している。ジャケットを着たままなので右側が窮屈そうに見えた。右腕を下ろしてやろうと立ち上がりかけたが、気持ちよさそうに眠っているので、思い直して腕時計を見る。まだ十時を回ったばかりだ。目まぐるしい一日だった。身体の中で何かがぐるぐる走り回っているようで何だか落ち着かない。じっと天井を見上げる。眠いのだけれど気分を落ち着かせたい。ラウンジへの誘惑が囁(ささや)きかける。クッションのよくきいたソファーとコーヒー。静寂と沈黙の居心地のいい場所。水沼はベッドから立ち上がった。
 ラウンジは静まり返っていた。照明を絞った高い天井と壁の間接照明が広々とした空間をふんわりと包んでいる。テーブル席には一人だったりカップルがポツン、ポツンと点在していて思い思いにくつろいでいる。静かなバランスが保たれていた。大きなガラス窓の外は暗い。そこには室内の様子がはっきりと映し出されていた。水沼は誰もいないテーブルをいくつか通りすぎて奥のテーブルのソファー席に座った。コーヒーを注文してミルクを注いで飲んだ。一口飲んでふうっと息を吐き出した。目を閉じる。身体のざわつきが少し収まった。その時、近づいてくる小さな足音に気づいて顔を向けた。やってくる人物を確認すると驚き、すぐに表情を弛ませた。彼女だ。少し前にバーで別れた、への字目笑顔の彼女がうれしそうに微笑みながらやってくる。薄手の茶色のセーターにベージュのスラックス。彼女の笑顔が真っ直(す)ぐに水沼をとらえていた。何かが解き放たれて身軽になったように水沼はすっと立ち上がった。

プロフィール

川上健一(かわかみ・けんいち) 1949年青森県生まれ。十和田工業高校卒。77年「跳べ、ジョー! B・Bの魂が見てるぞ」で小説現代新人賞を受賞してデビュー。2002年『翼はいつまでも』で第17回坪田譲治文学賞受賞。『ららのいた夏』『雨鱒の川』『渾身』など。青春小説、スポーツ小説を数多く手がける。

Back number