よみもの・連載

雌鶏

第三章2

楡周平Shuhei Nire

 清彦を遮って、森沢は破顔する。「仕事の日は、朝から晩まで会社。土曜の昼から、日曜の夕方まではここにおんのや。その間、ミツと一緒におるのは誰やねん。ワシとあんたやないか。ワシら夫婦も、あんたを家族や思うてるし、側から見ればミツとあんたは若夫婦や。ミツかて、とうの昔にそう思うてるがな」
 森沢の魂胆は先刻承知。ミツがその気でいるのも確かだろう。
 もちろん、貴美子のことが気にならないと言えば嘘(うそ)になる。しかし、彼女との約束にこだわれば、街金を始めるにしても、まずはどこに拠点を構えるかから始まって、顧客を開発し、限られた資金を元手にコツコツと商いを大きくして行く。文字通り、一からの再出発となってしまうのだ。
 人生を双六(すごろく)に例えれば、『振り出しに戻る』というやつだが、ミツと一緒になれば、状況は劇的に変化する。
 大衆相手の街金業は、すでに森沢が商圏を確立している。清彦の発案で始めた手形金融は融資金額、商圏共に拡大の一途を辿(たど)るばかり。次にどんな事業を始めるにせよ、森沢が手にした莫大な財産を元手にすれば、前途は果てしなく開けることになるのだ。
 二つの選択肢を天秤(てんびん)にかければ、悩むほどの問題ではなかった。
 貴美子には愛情を覚えていたのは確かだし、成り行き上、仕方がなかったとは言え、自分が犯した罪、それも殺人という重罪を被ってくれた恩もある。生涯を賭けて、その大恩に報いるのが、己に課せられた義務なのは重々承知している。
 しかしだ。
 愛情、恩、義務……。実体がない、感情の揺らぎとも言えるもののために、今開けようとしている将来への可能性を放棄するのは、余りにも馬鹿げている。そう考えると、貴美子が出所した後の生活基盤を築くために金貸しを志し、北原を頼って大阪へやってきたのも、森沢と、そしてミツと出会ったのも、全ては必然。己の人生を変える天の啓示のように思えてきた。
「本当にミツさんは私との結婚に同意してくださるでしょうか」
 すでに暗黙の了解というものだが、それでも清彦は改めて問うた。
「と言うことは、ミツと夫婦になる気になったんやな。婿に入ってくれるんやな」
 森沢は目を見開いて、座椅子の上で上半身を乗り出してくると、「ほんまのこと言うとな、ミツの気持ちは確かめてあんねん。もちろん、二つ返事でおーけーや」
 低い位置から頭を傾げ、清彦の反応を窺うように覗(のぞ)き見る。
 もはや、余計な言葉は要らぬ。
 清彦は、座椅子から畳の上に身を移すと、
「ならば、このお話、謹んでお受けいたします。不束者(ふつつかもの)ですが、末長くよろしくお願い申し上げます」
 その場に両手をつき、深々と頭を下げた。

プロフィール

楡 周平(にれ・しゅうへい) 1957年岩手県生まれ。米国系企業在職中の96年に書いた『Cの福音』がベストセラーになり、翌年より作家業に専念する。ハードボイルド、ミステリーから時事問題を反映させた経済小説まで幅広く手がける。著書に「朝倉恭介」シリーズ、「有川崇」シリーズ、『砂の王宮』『TEN』『終の盟約』『黄金の刻 小説 服部金太郎』など。

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