よみもの・連載

城物語

第一話『戦人の城(伊賀上野城)』

矢野 隆Takashi Yano

「年は取りたくないものよの高虎」
 翁がそう切り出してから、続ける。
「長旅のせいで、尻に腫れ物ができおった。昔はどれだけ鞍で揺すろうと、びくともせんかったがな。輿に乗っておって、これじゃ」
「痛みまするか」
「嫌らしゅう疼く。だから余計に腹だたしい。いっそのこと、破ってしまおうかと思うわ」
「痛みまするぞ」
「そのほうが、まだ解り易くて良い」
 他愛もない話はこのあたりで切りあげようと、高虎は顔を引き締め、気を漲らせた目を翁に向けた。そして、腹の底から声を吐く。
「そろそろ、今度の御来訪の真意を御聞かせいただけませぬか」
「ふむ」
 険しい高虎の顔を見つめ、家康はなおも柔らかな表情を崩さない。
 白髪のみの頭に血の気の引いたように青ざめた肌、そこに薄い灰の衣を着こんでいるから、まるで霞がくぐもって人の形を成しているがごとき容貌である。そのうえ、すっかり毒が抜けきり、笑顔を崩さないから、本当にこの世の者ではないように思えてしまう。ここにいるのは本当に、徳川家康なのか。それともどこぞの山から降りてきた、狐狸妖怪の類であるか。
「大御所様」
 不意に恐ろしくなった高虎は、笑顔の翁に声をかけた。
「聞こえておる」
 目を弓形に歪めたまま家康が答える。それから鼻を真ん丸に広げて、深く息を吸った。乾いた唇を大きく開けて、隙間が目立つ歯を見せながらゆっくりと吐いてゆく。その間、高虎は黙ったまま翁を待った。
「うむ」
 腹の底からきれいに息を吐きだして、鼻からもう一度ゆるりと吸って、家康は顎をこくりと上下させた。
「高虎よ」
 細かった翁の目が、かっと開く。見開いた瞳に宿っていたのは、かつての覇気であった。先刻までの好々爺の姿はどこにもない。曲がっていた背を伸ばし、わずかに顎を突き出して総身に威厳を纏った姿は、間違いなく先の征夷大将軍、徳川家康その人であった。
「ははっ」
 考えるよりも先に深々と頭を下げた。家康も高虎も、ともに家臣を下がらせ二人きりである。誰に見せるでもない。平伏は心からのものである。高虎という一個の男が、目の前の老人に心底からひれ伏していた。
「近(ちこ)う寄れ」
 伏せた頭に、力の籠もった声が降って来る。高虎は床板を見つめたまま、足を滑らせるように上座へ寄った。
「もそっと近う」
 上座と広間を分かつ段に、膝が当たる。そこまで来たとき、前方の気配がゆるりと揺らめいた。
「面(おもて)を上げよ」
 命じられて高虎は、顔を上げた。身を乗り出した家康の顔が、眼前にあった。

プロフィール

矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。

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