よみもの・連載

軍都と色街

第一章 横須賀

八木澤高明Takaaki Yagisawa

安浦の色街今昔


 米ヶ浜から歩いていける距離にあったのが安浦の色街である。京浜急行の最寄り駅は県立大学駅、元々は軍都を代表する色街の名を冠した京急安浦駅であったが、色街のイメージがつきすぎてよろしくないと京急が判断したのか、県立大学に駅名が変わった。
 かつて海軍の特攻兵器に伏龍というものがあった。米軍が本土に上陸してきた時に、潜水器具を身につけ、先端に機雷をつけた棒を持って海底で待ち、上陸用舟艇に機雷を接触させ、自爆するという人間機雷である。その伏龍の訓練を受けていた男性から、特攻隊員たちも安浦に通ったという話を聞いたことがあった。
 安浦の色街を歩いてみると、ほとんど民家に変わってしまっていて、かろうじて数軒、赤線時代の名残のある建物があるのみだった。
 町の外れで、事情を知っていそうな初老の男性がいたので、色街の状況について尋ねてみた。
「昔はそりゃ賑やかだったよ。通りに入ったら、遣り手婆に囲まれて歩けないほどだったからね。それが最近になって警察の取り締まりで、どんどん店は閉まっていってね。最後は九十近い婆さんがひとりで客を引いてきては、ここで待機させていた若い娘と一発やらせていたんだよ。何回警察に捕まっても、ずっとやっていたけど、最近では見ないなぁ。今じゃどこの店も営業してないんじゃないかな」
 安浦の色街の灯は五年ほど前に消えた。
「婆さんはここから十分ぐらい離れた横須賀中央で客を引いていたんだよ。事情があってずっとやっていたんだろうね」
 地元の男性は消えた光景をどこか懐かしみながら、話してくれた。
 最後までこの街で客を引いていた遣り手婆が住んでいたというアパートの場所を教えてもらった。そこを訪ねてみたが、アパートには人の気配がなかった。
 安浦の色街に隣接して安浦神社がある。ここ安浦は小泉元首相の地元、神社には元首相の玉垣があった。奥まった場所には、色街の店からも玉垣が奉納されていた。元首相の玉垣は神社の正面入り口にあったが、蝶々、花の家などと書かれた色街からのものは、表通りからは見えない所にあった。


 安浦の歴史は、明治から手掛けられて一九二六(大正十五)年に終わった埋め立てからはじまる。当初は住宅用地として利用されるはずだったが、関東大震災により、その予定が狂った。避難民収容のためのバラックが建てられたのと、米ヶ浜など市内に散らばっていた銘酒屋を治安維持の目的もあり、新開地である安浦に集めることになったからだった。色街とともに、埋め立て事業に絡んで多くの労働者たちも流れ込んできた。そのうちのひとりが今も安浦に暮らす小泉元首相の一族である。もともとは横浜市金沢区で鳶職(とびしょく)をしていた小泉元首相の祖父、又次郎が安浦で暮らしはじめたのだった。まさに裸一貫から、子孫は政治家となり首相にまで登りつめた。ちなみに又次郎の正妻は、芸妓置屋の経営者で、小泉家と色街との繋がりには浅からぬものがある。
 八十軒の銘酒屋が集められ、一軒につき四人まで娼婦を置くことが許された。日中戦争がはじまった昭和十二年頃には三百名の娼婦たちがいたという。
 戦前の横須賀には、公娼地域の柏木田(かしわきだ)、皆ヶ作(かいがさく)、米ヶ浜、安浦といった色街があったが、一番規模が大きかったのが平成まで百年近く続いた安浦であった。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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