よみもの・連載

軍都と色街

第七章 北九州 島原

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 門司港を訪ねたのは、夕暮れ時だった。太平洋戦争、朝鮮戦争、大きな戦(いくさ)が起こる度に、兵隊たちを乗せた輸送船が出た一号岸壁に向かって歩いた。この日、空模様はよかったものの玄界灘を越えてきた海風が吹き荒(すさ)んでいた。あまりの風の強さに時おり、思わず立ち止まった。波が岸壁を乗り越え、コンクリートの路面を濡らしていた。
 学校の体育館をひと回り大きくした古めかしい倉庫が建ち並ぶ岸壁の外れに来ると、もう人の姿はなかった。すでに日は沈みつつあり、雲間からこぼれる夕日が、漆黒に染まった海面を照らしていた。
 今から約八十年前、太平洋戦争の開戦とともに、門司からは七百六十一隻の輸送船が戦地へと向かった。それは国内の輸送船の四十五パーセントにのぼる数だったという。兵士の数は二百万人。兵隊ばかりではなく、日本各地から徴集された軍馬百万頭も海を渡った。門司から船に乗り込んだ兵士たちの約半分にあたる百万人は生きて再び日本の土を踏むことがなかった。一方の軍馬たちはどうなったのだろうか。日本獣医師会のホームページによれば、過酷な戦場を何とか生き抜いたわずかな軍馬は、連合国側に手渡され、現地で利用されたという。となると、一頭たりとも日本の土を踏めなかったことになる。人間ばかりではなく、家畜にも前(さき)の大戦は大きな苦痛をもたらした。
 太平洋戦争中には、人と軍馬合わせ三百万という数が、この埠頭から旅立っていった。兵隊たちを見送る家族が、見送りのために殺到したという。現在の人気の無い景色からはにわかには想像がつかない。太平洋戦争が終わり、その五年後に朝鮮戦争が勃発すると、今度は米兵たちがここから朝鮮半島へと向かった。

 港は戦場へと直結していたわけだが、明日をも知れぬ身である兵士たちを慰める遊廓も門司にはあった。
 門司と遊廓の歴史を辿(たど)っていけば、門司からひと山越えた場所にあって、江戸時代に北前船で栄えた田野浦港がその最初であった。門司に遊廓ができるのは、明治に入って石炭の積み出し港として栄えてからである。
 門司港を見下ろす丘の上に地蔵寺という寺がある。私は歩いてそこに向かったのだが、小高い山に囲まれた港町特有の細い道が入り組み、見つけるのに少々難儀した。
 地蔵寺は山の斜面にあって、境内の一角にある墓地には遊女たちの墓があった。それらは、田野浦港の遊廓で体を売っていた遊女たちのものだ。墓に刻まれた文字は、長年の風雨によってかすれてしまいほとんど読み取ることができなかった。どこから来た女たちが眠っているのだろうか。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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