よみもの・連載

軍都と色街

第七章 北九州 島原

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 トナがいたというインドのボンベイといえば一冊の写真集がある。マグナム・フォトに所属するマリー・エレン・マークという女性写真家がボンベイのフォークランドストリートと呼ばれる売春窟を写したものだ。
 薄汚れた壁、疲れ切った顔の女たち、でっぷりと肥えた楼主、色街の空気や人間が生々しく切り取られていた。その場所でからゆきさんが体を売ったのかどうか定かではないが、似たような空気の中にトナもいたのではないか。ちなみにフォークランドストリートで体を売っていたのは、インドの隣国ネパールやバングラデシュの女性たちだった。
 離婚した妻がネパール人だったこともあり、私は二十代から三十代にかけて、ネパールの山野を取材で歩き回っていた。ネパールでも特に貧しい西部の山岳地帯ではネパール共産党毛沢東主義派が蜂起し、ゲリラ闘争を繰り広げていたのだ。取材の顛末に関しては、拙著『マオキッズ』(小学館)を読んでいただければ幸いだが、その取材の最中に、幾度となく出稼ぎ先として、ボンベイという地名を耳にした。女でインドに働きに行くということは、暗に売春を意味した。男は労働者である。
 今改めて、門司港についての原稿を書き進めていくうちに、明治時代に日本の門司で起きていたことと同じことが、現在のボンベイで起きていることに気づかされた。結局人間というのは、時代や場所が変わっただけで、延々と同じことを繰り返しているような気になるのだった。
 離婚した妻は、小学校を五年で中退し、チベット人が経営するカーペット工場で絨毯を織っていた。得られるのは、日本円にして月に二千円ほどの現金だけだったという。彼女が暮らした山村には、ナイキと呼ばれる周旋屋がやって来て、インドに行かないかと若い女性に声を掛けていたという。もし、彼女がその言葉にのっていたら、インドの売春窟に送られていたかもしれない。それは今から二十年ほど前の話である。義理の兄は、結婚前にインドに出稼ぎに行き、同郷の女性がいる売春窟に入り浸って、エイズを患い、それを義姉に移し二人とも痩せ細って亡くなった。
 私とも無縁ではないインドにおける売春の根っこを辿れば、相川トナをはじめ、からゆきさんたちがいたと思うと、からゆきさんの存在が赤の他人ではなくなってくるのだった。

 門司港から海を渡ったからゆきさんの出身地に関して、『からゆきさん』(朝日文庫)の著者である森崎和江が、密航を試みたものの保護された、からゆきさんの詳細な記録を残している。記録は門司港が特別輸出港に指定された三年後の一九〇二(明治三十五)年から一九一一(明治四十四)年までの十年間に発行された新聞記事などから集計したものだ。
 それによると、最も多いのが長崎県内の長崎市と島原半島で百十九人。次に熊本県の天草地方の九十六人、三番目が広島県の四十人と続いていき、合計で六百三十人に及ぶ。彼女たちは、海を渡ることができなかった女性たちで、その何十倍、何百倍という女性たちが、密航していった。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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