よみもの・連載

軍都と色街

第七章 北九州 島原

八木澤高明Takaaki Yagisawa

原城跡と口之津、島原の悲しい歴史
 心にずしりと重くのしかかってくる写真とは裏腹に車窓から見える有明海はどこまでも穏やかだった。
 島原半島をさらに南下して、口之津を目指した。途中左手に、島原の乱でキリシタンの農民たちが立て籠もった原城が見えた。
 三方を海に囲まれ、岬そのものを利用した巨大な城郭跡は、中世に多く見られた山城などとは違って、早くからヨーロッパと通じていた土地柄があるのかもしれないが、スケールが大きい。ただ、この城をめぐる戦いは凄惨で、幕府軍の総攻撃の前に内通していた一人を除いて、一揆方はすべて殺されたという。
 江戸時代初期の一六三七(寛永十四)年から三八年にかけて起きた島原の乱は、日本で起きた一揆史上最大のものであった。
 戦国時代のキリスト教伝来以来、九州には多くのキリシタン大名が生まれ、キリシタン信仰の篤い土地であった。ところが、江戸幕府が開かれると、日本全国でキリシタンは厳しい弾圧にあった。将軍のお膝元である江戸においても、一六一三(慶長十八)年には浅草の鳥越で二十八人のキリシタンが殉教、さらに時代は下って一六二三(元和九)年には、芝口札の辻でキリシタン五十名が処刑されている。
 島原の乱のきっかけは、キリシタンへの弾圧だけではなく、一六一六(元和二)年から島原の領主となった松倉重政による農民たちへの圧政が要因となった。松倉氏の治める島原地方は実質四万三千石にすぎなかったが、家格にこだわった松倉家は十万石と幕府に申告し、足りない分を重税で補った。重政の後を継いだ勝家の統治は輪をかけて苛烈さを増した。
 乱の起きた一六三七年、島原地方は凶作だったため年貢を納められない庄屋や農民が相次ぎ、勝家はそうした者から、人質を取るようになった。『黒田長興一世之記』によれば、人質にされた庄屋の妻は水牢に入れられ、絶命したという。そのことが引き金となり、島原の乱が勃発したのだった。
 島原で火の手があがると、天草の領民たちも呼応し、天草四郎時貞が首領となり、三万八千の一揆勢は原城に立て籠もった。幕府は、板倉重昌を派遣するが、激しい抵抗にあい戦死。知恵伊豆と呼ばれた松平信綱を派遣し、オランダにも艦砲射撃を要請するなどして、ようやく鎮圧することができた。
 この一連の戦いで、奮闘したのが九州の福岡藩である。あの芦屋で見たサテツを持ち帰った武士たちもさぞ勇敢に戦ったに違いない。福岡藩兵は総攻撃の際には原城に一番乗りを果たした。籠城側の生存者は一人という戦いであったから、戦利品になるようなものは何もなく、籠城戦で火に焼けることなく生き残ったサテツは縁起の良いものと考えたのかもしれない。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

Back number