よみもの・連載

軍都と色街

第七章 北九州 島原

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 この乱の要因は、キリシタンの反乱というよりは、松倉家の圧政が招いたものであり、農民一揆という見方がされているが、幕府は、キリシタンの禁制をすすめるために、キリシタンの反乱というイメージを作り政治利用したのだった。
 ちなみにこれから向かう口之津の港の周辺からも、島原の乱当時、千人が馳せ参じ戦い、全員討ち死にしている。
 その後、島原半島の人口は乱により激減したが、キリシタン大名の小西行長の領土であった小豆島から隠れキリシタンの住民が移住し、そうめんが伝わり今日まで続く特産品となった。島原半島を車で走ると、目につくそうめんの看板は島原の乱が紡いだのだった。

 原城跡を歩いてから十五分ほど走っただろうか、かつて、からゆきさんたちを乗せた石炭船が東南アジア各地に向かった口之津の港に着いた。
 有明海から、小さな湾口を通じて繋がっている口之津の港は、古くから良港として知られていて、戦国時代にキリスト教が伝来した時には、アルメイダ神父が、最初に布教にきた土地であり、二百五十人が洗礼を受けたという。
 私は、東南アジア各地で日本人墓地を訪ね、日本人娼婦からゆきさんの墓を多く目にしてきた。その度に、彼女たちが、最後に踏んだ日本の土地のひとつである口之津の港を訪ねてみたいと思い続けていた。
 今回その念願が叶ったわけである。この港から、石炭が盛んに積み出された明治、大正時代には、遊廓もあり、たいそうな賑わいを見せたというが、今となっては、寂れた港町という言葉がしっくりくる。
 そんな景色を眺めながら、東南アジア各地の日本人墓地のことを改めて思い返したのだった。

 石炭の積み出し港として、からゆきさんが送り出された港として、明治時代中期から、大きく栄えた口之津の港。口之津歴史民俗資料館に展示されていた地図によれば、港のすぐ側に、大坂屋と肥前屋という遊女屋があった。その場所を訪ねてみると、そこには、それと思しき建物が数軒残っていた。遊廓の裏手を歩いていると説明板が目に入った。それを読んでみると、この場所にかつて与論長屋があったと記してあったのだ。
 与論長屋とは、明治時代に与論島から出稼ぎに来た人々が暮らした長屋のことだ。一八九八(明治三十一)年、与論島は台風により甚大な被害を受け、秋にはほとんど収穫物がなく、島民たちはその日の食ベ物にも事欠いた。島民は、その日を生き抜くために集団移住を決意し、渡った先が口之津だった。
 当時の口之津は三池炭鉱で採掘された石炭が沖積みされていて、その労働を担ったのが与論の人々だった。流れ者が多かった沖仲仕だが、彼らは離島出身ということで、給料を本土出身者の半分に抑えられ、近隣の住民からは「ヨーロン」と馬鹿にされたという。そんな劣悪な労働環境の中で彼らが暮らしていたのが、この長屋であった。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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