よみもの・連載

軍都と色街

第七章 北九州 島原

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 日本軍が置いた慰安所というのは、軍自らが銃剣を突きつけて女性たちを集めるようなことはせず、日本や朝鮮半島で遊廓を経営していた者や女衒たちによって集めさせて、軍隊とともに行動させた。慰安所というのは公娼制度という下地なくしては運営できなかった。
 朝鮮半島出身の慰安婦たちは、これから触れることになる、九州の久留米に置かれた陸軍第十八師団の兵士たちが戦った北ビルマ(現・ミャンマー)などの慰安所にもいたのだった。

 石炭ばかりではなく娼婦たちも海を渡った門司港。馬場遊廓だけではなく、蛭子町(現・東本町)、大坂町、桜町(現・老松町)、錦町にも色街は存在した。
 一九三四(昭和九)年に内務省が全国の私娼窟を調査した資料に目を通すと、門司には大坂町、桜町と記されていて、百九人の私娼がいたという。その他にも地獄と呼ばれた娼婦たちがいた。地獄とは江戸時代にも使われていた娼婦の呼称で、素人のことを言う。地の女の極みという意味があるという。
 門司には、公娼制度で認められていた遊廓、そして私娼窟、さらには地獄を抱えていた曖昧屋など、様々な娼婦たちがいて、数多の客を迎え入れていた。そうした土壌が地方から男や女を吸い寄せ、からゆきさんを海外に送り出す拠点を作り出したのだった。
 門司の街を歩いてみれば、馬場遊廓からほど近い場所にあった蛭子町や錦町などに色街だった頃の建物が、マンションなどにまじって残されていた。以前、蛭子町へと案内してくれたタクシーの運転手の話によれば、売春防止法が施行される直前は、当時の金で千円ほどの値段でひと晩遊ぶことができたという。
「街中、いろんなところに遊ぶ場所があって、賑やかな時代でしたよ」
 車を走らせながら、彼は往時を懐かしんだのだった。
 石炭も軍隊もそしてからゆきさんも、この街からもう海を渡ることはないだろう。門司港レトロというキーワードを各所で見かけた。レトロとは古き良きものを愛でるという意味になるが、門司港の歴史を振り返った時にレトロという言葉を使うには、どうも違和感を覚える。日本の近代化の狭間で、あまりに生々しすぎる人間の生き様が積み重なっていて、まだまだ供養されていない御霊(みたま)が関門海峡を漂っているような気さえするからだ。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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