よみもの・連載

軍都と色街

第七章 北九州 島原

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 訪ねた初日は一時間ほど話をしてくれた。
「わしゃ六十年近くタイに住んでいる。戦争が終わってから一年が過ぎて一度日本に帰ったんじゃが、戦場で亡くなった戦友のことが頭に浮かんでタイに戻ったんじゃよ」
 藤田さんは火野と同じ第十八師団に配属され、第五十五連隊第三中隊三分隊の伍長だった。第十八師団の部隊名は菊。皇室の紋章である菊が師団名についていることだけで名誉なことであったが、数々の激戦地に投入され日本陸軍の最強師団だった。
「兵隊に取られたのはちょうど十九歳の時じゃった。広東からマレー半島、シンガポール、いつも勝ち戦(いくさ)で、これで日本に帰れると思ったら、ビルマに行くことになったんじゃ。マンダレーに行って、それからが大変じゃったんだよ。インパール作戦に引っ張られてな。飢え死にした死体が束になっていたよ。インパールから退却する時、道端の死体の群れの中から声が聞こえてきたんじゃよ。てっきりみんな死んでると思っていたら、生きているのがいたんだ。『ごはん食べさせてください』って言うんじゃよ。そう言われても、ワシらも一升の米だけ持たされて、それをずっとお粥にして食べていたぐらいだから、あげる米なんてないんじゃ。その時のことは今でも忘れんな」
 第十八師団でインパール作戦に参加したのは、歩兵第百二十四連隊で、藤田さんが所属していた連隊が参加していたとの記録はない。第五十五連隊は、火野葦平が気になっていた北ビルマのフーコンで絶望的な戦いを強いられていた。フーコンの戦いにおいて、日本軍と連合軍の戦力比は一対十五、しかも補給はほとんどなく、戦闘だけでなく飢えとも戦わなければならなかった。私が取材した当時、藤田さんの年齢は八十九歳で、戦場に関しては記憶の違いが生じていたのだろうか。その点は聞かずに黙っていた。ただ、戦った場所に記憶違いがあったとしても彼が戦場を経験したことに偽りはないと思った。
「ビルマとインド国境のジャングルでは、大砲の破片が大木に当って落ちてきたんだ。あのままその破片に直撃されていたら、帰ってこられなかっただろうな。インパールからカーサ、ナーバーとずっと歩いて、チェンマイまで来たんじゃよ。途中ビルマの村では高地民族の女と結婚して『もう日本には帰らん』と言っていた兵隊もおった。そんな兵隊はたくさんいたと思うぞ。ワシもインパールからずっと歩き通しで、タイのメーホーソンを通ってチェンマイまでは何とか辿り着いたけど、そこからバンコクへ向かうというんで、歩いているうちに遅れてしまって、ひとりぼっちになった時に、飯を食わせてくれたのが、嫁さんになったタイ人じゃったんだよ」

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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