よみもの・連載

軍都と色街

第七章 北九州 島原

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 一九〇四(明治三十七)年九月三十日付の『門司新報』によれば、博多の対馬小路で飲食店を営む三木某が、娼妓二十一名を連れ、韓国のソウルに渡ったと記事にしている。対馬小路は今も残る地名で、「オッペケペー節」で知られる川上音二郎の出生地である。一九〇〇年初頭の対馬小路は、私娼窟だったという。対馬小路からほど近い場所には、豊臣秀吉が博多の街割をした慶長年間から続く柳町遊廓がある。記事になった以前にも三木某は遊廓の娼妓を連れて、韓国に渡っていた。
 三木某がからゆきさんを連れて渡ったソウルには、日本人居留地にあった新町遊廓が一九〇四年から営業を始めていた。韓国が日本に併合される六年前のことである。
 新町遊廓が設置された一九〇四年は、日本の近代史にとって大きな分岐点となった日露戦争をはじめた年である。翌年の勝利により、日本人の大陸進出に拍車が掛かった。日露戦争以前朝鮮半島に暮らしていた日本人は一万人ほどだったが、日露戦争後には約八万三千人まで急増した。そのうちソウルに暮らしていたのは約四万人。彼らから公使館に遊廓設置の請願が出され、人口が増加したこともあり、新町遊廓の設置が許可されたのだった。
 その場所は、日本人にも有名な明洞(ミョンドン)からほど近い丘のまわりにあった。ソウルの中心部からは南の方角にあたり、在留邦人たちは新町遊廓に行くことを南極探検に行くと言ったという。そもそも遊郭のあった場所の近くには徳川時代には倭館(わかん)と呼ばれた日本人居留地もあり、歴史的に日本人と因縁があった。

 かつて新町遊廓があった場所を訪ねたことがあった。参考にした『全国遊郭案内』によれば、当時九百人の娼妓がいて、多くは日本人で熊本など九州の女性が多かったという。値段は泊まりで今の価値に換算すると、六千円ほどだった。
 九州の女性が多かったという記述からは、記事にあった三木某をはじめ多くの女衒たちが、博多を中心に娼妓たちを集めて、送り込んだことを裏付ける。
 新地遊郭跡を歩いてみると、ソウルは朝鮮戦争で焼け野原になっていることもあり、当然ながら色街の痕跡はどこにもなかった。新町遊廓があったと思しき場所は、住宅街になってしまっていた。
 軍都と色街をテーマにするこの連載において、ソウルに置かれた新町遊廓は、後の慰安婦問題とリンクしていることもあり、もう少し触れておきたい。
 一九四一(昭和十六)年に太平洋戦争がはじまり、日本軍の戦域は東南アジアや太平洋の島々まで広がった。各地の戦場に兵士や将校を相手にする慰安所が置かれた。そこでは朝鮮半島出身の女性たちが働いていた。彼女たちが強制的に戦場へと連行され働かされたと主張するグループもあるが、私の見解は異なる。朝鮮半島が日本に併合され、公娼制が敷かれたことにより、新町遊廓をはじめとして、現在の北朝鮮の首都平壌(ピョンヤン)や元山(ウォンサン)などに遊廓ができた。それらの遊廓では併合当初は、日本人の娼婦たちが多かったが、その後朝鮮人の女性たちが大多数を占めていった。そうした女性たちは、日本人だけではなく朝鮮人の女衒によって集められていた。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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