よみもの・連載

軍都と色街

第七章 北九州 島原

八木澤高明Takaaki Yagisawa

小倉と若松を歩く
 三年ぶりに小倉の街を歩いたのは、蒸し暑い夏の夜のことだった。小倉に入ったのは、石炭の積み出し港であることと、戦地へも積極的に足を運び貴重な記録を残している火野葦平の故郷若松を訪ねたかったからだった。
 駅前にあった闇市の風情を残していた飲屋街が、きれいさっぱり無くなり、マンションになっていた。
 少々がっかりした気持ちで歩いていると、どこからともなく腹の底に響くドーン、ドーンという音が聞こえてきた。何の音かと思いながらさらに歩いていくと、目に入ってきたのは、路上に太鼓を置いて、子供たちが叩いている姿だった。
 小倉祇園太鼓の日が迫り、その練習をしていたのだった。真剣に太鼓の練習をする子供たちの姿を見ながら、私はある小説のことを思い出さずにはいられなかった。
 今から約七十年前、小倉祇園太鼓が行われる日に朝鮮半島の戦場へ送られることになっていた米軍の黒人部隊の兵士たちが、集団脱走し暴行事件を起こした。その事実をもとに書かれた松本清張の『黒地の絵』である。
 訪ねた日に小倉祇園太鼓の音を耳にするという奇妙な巡り合わせに不思議な気持ちになった。出来過ぎの話ではないかという声が聞こえてきそうだが、まったくの偶然だった。
 小倉は敗戦直後から米兵相手の色街としても、知られていたが、朝鮮戦争開戦当時、逼迫(ひっぱく)してきた戦況により、米兵たちは色街に繰り出す間もなく戦場へ送り込まれた。黒人兵たちはこれから自分の身に起こる運命を呪って暴れ狂ったのだ。
 事件を起こした米兵たちが、小倉に駐屯したのは、もともと軍都として小倉が栄えたからだった。
 一八七五(明治八)年小倉城内に歩兵第十四連隊が置かれ、その後連隊は第六師団の隷下に入り、一八九八(明治三十一)年には、第十二師団の所属となった。その後大正時代になると、大阪砲兵工廠(こうしょう)小倉兵器製造所が設置され、昭和に入ると小倉陸軍造兵廠に改名されるなど、九州を代表する軍都となったのだった。
 色街は一八八七(明治二十)年に許可され、旭町に遊廓ができた。現在の小倉に旭町という地名はなく、船頭町となっているあたりに遊廓があった。その場所を歩いてみると、ソープランドや駐車場になっていて、色街の匂いは今も受け継がれている。米兵も娼婦も、あの時代を知る者はもうこの街にはいないと思うと、太鼓の音が、彼ら、彼女らに送る鎮魂の調べのように聞こえたのだった。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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