よみもの・連載

軍都と色街

第七章 北九州 島原

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 江戸時代初期に河村瑞軒によって、西回り航路が開かれたことにより、大坂から瀬戸内海、下関を経由して北海道まで水運で結ばれ、北前船が行き来した。それまでは漁村だったという田野浦は、北前船の潮待ちの港として栄えていったのだった。明治時代のはじめには、永文字屋、蛭子屋、鍛冶屋の三軒の遊廓があったという。おそらく以前には、それ以上の数の遊廓があったことだろうが、田野浦は水運から鉄道へと輸送手段が移り変わるとともに衰退していった。
 田野浦の代わりに発展したのが門司だった。それまで、塩田以外に目ぼしいものがなかった門司は、鉄道の駅の開業をきっかけに人と物が集まるようになったのだった。
 駅は一八九一(明治二十四)年に開業し、その二年前の一八八九年には門司港が石炭、米、麦、硫黄などの特別輸出港に指定された。特別輸出港に指定された年に、貸座敷営業の許可が下りている。そうしてできたのが馬場遊廓だった。貿易港として、産声をあげ、官民一体となって街づくりが行われ、その一端を色街が担っていた。
 その段取りの良さは、江戸時代末期に侘しい漁村に過ぎなかった横浜が、貿易港となった時に、街が大いに発展し遊廓も設置されたことと軌を一にする。
 主要な鉄道駅や港は近代産業や貿易などの国家の動力源となった。そのような場所には遊廓が置かれ、明治以前の街道筋や北前船で栄えた港にあった遊廓を吸収する形で新たな色街が発展した。この連載の舞鶴編でも触れたが、江戸時代に栄えた軽井沢の宿場にあった飯盛旅籠は、鉄道駅が開業すると岩村田に移った。北前船で賑わった田野浦遊廓が門司に移ったのと同じことである。

 門司の発展に欠かせなかったのは国内最大級の採掘量を誇った筑豊の石炭だった。明治時代のはじめには、日本全体で年間二十三万トンほどだった石炭の生産量は、門司港が特別輸出港に指定された頃には、年間二百万トンに達し、日本の主要な輸出品となっていた。まさに石炭は黒いダイヤであった。
 石炭の歴史を振り返るために、『石炭由来記』という江戸時代末期に記された書物を繙(ひもと)けば、一四六九(文明元)年石炭を発見したのは、三池郡稲荷村に暮らしていた百姓伝治左衛門で、山に薪(たきぎ)を取りに行った際、枯葉に火をつけると突然黒い岩が燃え出したという。その黒い岩こそが石炭だった。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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