よみもの・連載

軍都と色街

第七章 北九州 島原

八木澤高明Takaaki Yagisawa

日本兵が多く暮らしたクンユアム
 私は藤田さんがインパールから逃れて来た道を戻るかたちで、タイ・ビルマ(現・ミャンマー)国境にあるクンユアムという町を訪ねた。この町は藤田さんをはじめインパール作戦などビルマで戦った日本兵が逃れてきた町だった。町にあるいくつかの寺は、戦争当時、野戦病院となっていた。この地まで逃れて来たものの、命を落とす兵士も少なくなかった。寺の境内には亡くなった兵士たちの墓碑も残されていた。クンユアムの町には当時、千人以上の日本兵が暮らしていて、藤田さんのようにタイ人女性と結婚する者もいた。
 町には日本軍が残していった武器や軍服などを展示した博物館もあった。博物館の中に足を踏み入れてみると、雲南省や北ビルマで戦った藤田さんが所属した第十八師団の兵士たちが残していったコートなども展示されていた。インパール作戦から白骨街道を命からがらタイへと戻って来た兵士の写真もあった。がりがりに痩せた兵士の手に武器は無く、飯盒(はんごう)だけを握りしめていた。その写真からは、作戦の凄惨さが伝わってくるのだった。この博物館で一番多く展示されているのは、兵士たちが肌身離さず持っていた水筒である。梅田などと名前が書かれている水筒は、飢餓戦線を生き抜くための命綱だったのだ。人の命を殺める武器ではなく、己の命を繋ぐための水筒。撤退する日本軍兵士にとって戦場はもはや敵と戦う場ではなく、己の命を飢餓から守ることだけがすべてであった。ここにある水筒の持ち主たちは、無事祖国日本へ帰ることができたのか。
 この町の中で、日本兵と結婚していたパンさんという老婆と出会った。彼女は一人で数匹の猫と平屋の木造家屋に暮らしていた。長年、この土地で農作業に従事してきたのだろう、日本の農村でよく見かける老婆のように、腰がくの字に曲がっていた。私が日本人だとわかると、いきなり歌を口ずさんだ。
「さらばクンユアムよ、また会う日まぁーでー」
「ラバウル小唄」の替え歌だった。また会う日までから先は、記憶が曖昧なようで、鼻歌になった。歌はかつてこの町に多くいた日本兵から教わったのだという。兵士たちが地元の人々に歌を教えることができるほど、終戦が間近だったとはいえこの土地での生活は地獄のビルマとは違ったものだったのだろう。
 インパールからクンユアムへ、この町の外れにあるジャングルに白骨街道と呼ばれた道が今も残っていた。
 杖を片手に必死に歩き、ここへ辿り着いた兵士たちの足が踏み固めた道である。インパールからクンユアムまで地図上の直線距離で約千キロ、当然道は曲がりくねり、高低を繰り返すから、実際はその倍近い距離がある。健常者が歩いても二ヶ月は要するだろう。ただでさえ困難な道のりを飢餓状態の兵士たちが歩いた。街道には累々と屍が転がっていたという。街道を歩ききった者だけが辿り着けた天国がここクンユアムであった。地獄から生還し、兵士たちはようやく人間らしい感情を取り戻したのだった。藤田さんがタイで嫁をもらった意味が、ここクンユアムへ来て、少し理解できた気がした。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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