よみもの・連載

軍都と色街

第七章 北九州 島原

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 現在の土井町に関しては、まだまだ営業しているという話とすでに色街としては終えてしまったという話が錯綜(さくそう)していた。
 とにかく地元の人に話を聞いてみたいと思った。
 土井町のはずれ、一軒の居酒屋の入り口で店主と思しき男性が、休憩だろうか、タバコを吹かしていた。
「土井町のことを調べているんですが、ちょっとお話を聞かせてもらえませんか?」
「あっ、いいよ」
 特に嫌な顔をすることもなく、気さくに応じてくれた。
「俺が若い頃には、まだまだゴンゾーがおったからね。彼らは仕事を終えて、風呂に入ったら、酒を飲むか女を買うかで、宵越しの銭を持たなかったから。それと船員で賑わってたよ」
 ちなみにゴンゾーとは沖仲士のことである。
「外国の船員さんだって、ドイマチ、ドイマチって知っていたからね。それに屋台も海岸通りの方までずらっと並んで、人通りも多かったよ」
「今も売春はやっているんですかね?」
「売防法も関係ないところだったけど、ここ最近は摘発が入って、どんどん店は減ってね。十年ぐらい前までは客引きが立っていたけど、今は見かけんね。だけど、商売やめてもどこにも行くところがないからね。こっそりと客を入れているという話だね。ただ相手をしてくれるのは年がいった人だろうな」
 色街は瀕死の状態ではあるが、かろうじて息をしているようだった。
 ただ、どの家が客を取っているのかは、一見の私にはわからなかった。

 今も色街としてかろうじて営業している若松の土井町を歩いてから、かつての赤線、連歌町へと足を運んでみた。
 十分ほど歩いただろうか、連歌遊廓跡に着いた。それらしき建物がわずかに残っているだけで、今では空き地と住宅街になっている。
 連歌遊廓が産声を上げたのは一九〇一(明治三十四)年のことだった。日清戦争が終わり、日露戦争が数年後にはじまるという、まさに大日本帝国が乗りに乗っていた時代のことだった。
 石炭は国家の生命線としてもて囃(はや)され、重要な積み出し港であった若松は、経済の歯車としてなくてはならない場所であった。その港町に労働者や経営者たちの社交場として色街ができるのは必然ともいえた。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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