よみもの・連載

軍都と色街

第七章 北九州 島原

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 若松の色街の起源を辿ると、宿場町としても栄えた江戸時代にはじまり、明治から昭和にかけて隆盛を迎えたのだった。
 戦前の日本各地の色街事情を記した『全国遊廓案内』にはこのような記述がある。
“石炭を輸出する帆船が常に数千隻宛も碇泊して居る壮観は実に東洋一だと云ふ事だ”
 そして、百十人の娼妓が戦前にはいたという。

 色街跡を歩いてから、かつて帆船が停泊していたという港へと向かった。靄に覆われた港は、連絡船が微かな波音を立てて行き交っているだけだった。『放浪記』で知られる林芙美子は、一九〇三(明治三十六)年に下関で生を受け、ここ若松で暮らし、この連絡船に乗って、女癖の悪かった実父から母親と逃れた。連絡船の桟橋は、今も通勤通学に使われてはいるが、人生の重荷を背負った人とは縁が薄そうだ。
 若松を語るうえで外すことができないのは、若松を舞台にした小説『花と龍』を書いた作家の火野葦平だ。
 火野の母親マンは、広島県の山間部の出身で、兄が沖仲仕をしていた門司に出て、そこで同じく沖仲仕をしていた父親の玉井金五郎に出会い結婚する。金五郎はマンの支えもあり、一介の沖仲仕から大親分にまで成り上がる。私は火野の母親であるマンの出身地が広島県の山間部、現在の庄原市ということに興味を覚えた。
 やはり、からゆきさんの姿と彼女を重ねてしまうからである。映画監督の今村昌平が撮ったドキュメンタリー映画『からゆきさん』には、マレーシアのクランという町で働いていた広島県出身の元からゆきさんが登場する。
 映画は私が生まれた翌年の一九七三年に上映された。平成から令和となり昭和はすでに遠くなりつつあるが、私が幼い頃には、まだまだ多くのからゆきさんが歴史の生き証人としてドキュメンタリーの題材になっていたことに驚いた。
 火野の母親マンは、大親分の妻として人生を送ることができたが、どこかで足を踏み間違えていれば、からゆきさんとして売り飛ばされていた可能性もあった。火野葦平が若松で生を受けたのは、一九〇七(明治四十)年のこと。石炭運搬船の船底に潜みインドへ売り飛ばされた相川トナが門司港から香港へ向かった年でもある。
 火野葦平は多くの作品を残したが、その中でも印象に残るのは、『インパール作戦従軍記』(集英社)だ。火野自身が、第十八師団歩兵第百二十四連隊の下士官として中国へ出征し、その最中に芥川賞を受賞。その後従軍報道班員として、太平洋の戦場を駆け回った。その中でも、かつて所属した第十八師団が苦戦を続けていたビルマ戦線には従軍を志願して向かった。
 前線に出て戦った火野からしてみれば、兵士たちの存在は他人事ではなかった。 

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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