よみもの・連載

軍都と色街

第七章 北九州 島原

八木澤高明Takaaki Yagisawa

ビルマの白骨街道を歩く
 ここクンユアムからさらに藤田さんが歩いたインパールへ繋がる白骨街道は、残念ながらタイ・ビルマ国境が閉じられているため陸路では進むことができない。私は一度バンコクに戻り、ビルマへと向かった。ビルマ国内にも数多くの残留日本兵が暮らしていた。 
 戦前、戦中のビルマには、からゆきさんも少なくなく、かつてラングーンと呼ばれたヤンゴンには、からゆきさんの墓も残されている。そして、戦争中には日本人や朝鮮人の慰安婦たちが兵士や将校に体を売った。『インパール作戦従軍記』には、慰安所に関する記述がある。インパール作戦を担当した第十五軍の司令部のあったメイミョーに飛田遊廓の経営者が営む料理屋があったというのだ。
 私が訪ねたのは暑季が終わった六月にもかかわらず、ヤンゴンやマンダレーの日差しはきつく、日中は出歩く気にならなかったのだが、メイミョーへと足を運んでみると、当時からビルマの軽井沢と呼ばれただけあって、別世界のような涼しさだった。涼風が頬を撫で、同じビルマだとは思えないほどだった。インパール作戦当時、日本軍の司令部はメイミョーからインド・ビルマ国境に移動しているが、作戦発動時はこの場所にあった。
 軍隊にとって頭脳ともいうべき司令部が、前線に近ければ良いというわけではないが、飢餓戦線で飢えと泥にまみれた兵士たちのことを思うと、複雑な気持ちにならずにはいられなかった。

 火野が雲南省へ向かう直前、北ビルマのミートキーナ守備隊は、米英印支連合軍に包囲され、絶望的な戦いを強いられていた。この町を守備していたのは、第十八師団百十四連隊の兵士たちだった。かつて火野が所属した第十八師団、同じ九州の兵士たちだった。
 ミートキーナに入ったのは、メイミョウを訪ねる前で、雨季の最中だったこともあり、連日雨が降っていた。今から七十六年前の戦いもちょうど雨季だった。
 私がミートキーナを訪ねたのは、その町から程近い村に日本人の老人が住んでいるとの情報を得たからだった。何十年も前から老人はその村に住んでいることからも、彼は残留日本兵の可能性が高かった。

 ミートキーナに入った翌日、ガイドの青年が運転する中国製のバイクにまたがり、村へと向かった。私はバッグの中に老人に飲んでもらうため日本酒を持って来ていた。おそらく、日本には帰らなかった老人に忘れかけているであろう日本酒を味わって欲しかったのだ。
 村はミートキーナ市内から北東の方角にあるモホウという村だった。かつて連合軍が蒋介石の重慶政府を助けるために切り開いたインドのレドから中国の重慶へと向かうレド公路上に村はあった。村の大部分の土地は、国軍に接収され飛行場になっていた。飛行場の脇にある一軒の家の前でバイクは止まった。
 家人に日本人の老人を訪ねて来たことを告げると、五分ほどして、一人の老人が現れた。ビルマの民族衣装であるロンジーを着た浅黒い肌をした老人は、ネパール系のビルマ人だった。彼に日本人の老人について尋ねると、彼ははっきりとした口調で言った。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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