よみもの・連載

軍都と色街

第一章 横須賀

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 ゴミ捨て場を漁るなどして命を繋ぎ、米軍から逃れ続けた井出口さん、時には米軍に追い詰められ、木に登って彼らをかわした。
「ある日、ジャングルの中にいたら、向こうから大きな黒人の兵隊たちが、ゆっくりと向かって来たんです。慌てて逃げるわけにもいかず、仕方ないので木に登って隠れることにしたんです。そこで見つかったら、撃ち殺されたでしょうが、黒人の兵隊たちは私に気がつかず、命拾いをしたなんてこともありましたね」
 サイパンのジャングルで過ごすうちに終戦を迎えた井出口さんは、捕虜収容所に入れられた。
「デテキナサイと変な日本語だけじゃなくて、日本軍の上官と思しき人物が、部下の名前を呼んで戦争は終わったとマイクで言ったもんですから、出て行くことにしたんです。それで捕虜収容所に入れられたんですが、先に入っていた連中は、いいものを食っているから、肥えてまん丸い顔をしている。こっちはジャングルの中を一年以上逃げ回りながら、戦っていたわけでしょう。何だか腹が立ちましたよね」
 井出口さんは幾度となく窮地を脱し、玉砕の島サイパンから生還した。そして今もサイパン島への慰霊の旅を続けている。サイパン島の戦いでは陸軍海軍合わせた日本軍守備隊約四万三千人のうち捕虜となった兵士は約千名ほどである。九割を遥かに超える兵士が戦死したことになる。
 井出口さんが戦ったサイパン島を私も以前訪ねたことがあった。日本人向けのリゾートホテルやレストラン、土産物屋などが建ち並んでいるのが、井手口さんの部隊が夜襲に出撃したガラパン地区である。
 日本人の観光客が目につくガラパンであるが、かつて日本がサイパン島を統治していた時代、サイパン島随一の日本人居住地でもあった。
 日本がサイパン島を統治したのは、一九二四(大正十三)年から太平洋戦争に敗れた一九四五年まで。当時サイパン島には約三万人の日本人が暮らしていて、映画館から日用品を売る商店、そして、単身で海を渡って来る男たちや駐屯していた軍人目当てに春を売る女たちの姿があった。
 女を置いていた遊廓はかつてのガラパン三丁目付近にあったという。当時遊廓を経営していたのは日本人ばかりではなく、朝鮮人も二軒ほど店を出していた。酌婦の数は二百五十人ほどで、南洋の銀座と呼ばれ大いに栄えた。島に駐留していた兵士たちも利用したことだろう。
 私は日本統治時代の地図を頼りに、その頃遊廓が建っていた場所を歩いてみた。遊廓は日本人の観光客が多く訪れる免税店のある表通りから一本入った、細い路地の中にあった。
 ガラパンは一九四四年六月からはじまるサイパン島の戦いで灰燼(かいじん)に帰しており、当時の建物はほとんど残っておらず、遊廓の建物も現存しない。ただ残っているのは、白い砂がむき出しになった空き地と椰子(やし)の木だけだった。
 
 横須賀には日本各地から女たちが集まり、そして男たちは束の間の安らぎを得ると戦場へと放り込まれていった。サイパンから帰還できた井手口さんのような人は稀で、そのまま異郷の土となった者がほとんどだ。数多の物語がここ横須賀で生まれては消えた。私は、アメリカンスタイルのハンバーガーが好きなこともあり、今もどぶ板通りを歩くことがある。太平洋戦争もベトナム戦争も知らない私は、話を聞き、昔の写真を眺め、かつての姿を想像することしかできない。
 それにしても無数の人間たちが踏みしめてきた土地の上を今歩いているのだと思うと、深い感慨に身も心も包まれることがある。
 そう考えると、今私が見ている景色すらも、俄(にわか)に朧(おぼろ)げなものとなって、幻のように思えてくる。横須賀は、蜃気楼のような街なのだ。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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