よみもの・連載

軍都と色街

第一章 横須賀

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 大物を採ることができた戦前の漁には、一方で危険もつきまとった。
「ここは西の風に弱いんだ。何より気をつけなきゃいけないのは、波より風だった。今みたいにエンジンが付いてないから、西の風が吹いたら、港に戻って来られなくなるんだ。昔は、西風で千葉まで流されたなんて話がよくあったよ」
 戦前、十四歳で高等小学校を卒業した石渡さんは、海軍工廠へ働きに出た。父親は先の見えない漁師よりは、手に職をつけさせたいと思ったのだという。
「漁師の生活は厳しいから、俺には陸に上がって工場に勤めてもらいたかったんだよ。漁師は弟が継いで、俺は零戦を作ってたんだよ」
 海の埋め立てなどにより年々魚が減っていく現状の中で、父親は安定した道を歩ませたかったのだろう。
 海軍工廠で働きはじめて、二年後に日本がアメリカに宣戦布告した。上の兄は出征し、フィリピンで戦死した。石渡さんは軍事工場に勤めていたこともあり、徴兵されたのは終戦間際のことだった。
「横須賀の武山海兵団に入ったんだけど、俺も死んじまうんだろうなって思ったな。死ぬのは怖くなかった。終戦が近い頃だったから、外地に出る船も無くて、助かったんだ。いざ助かると、急に死ぬのが惜しくなってな。兵隊から帰って来て、病気をしたんだけど、先生に助けて下さいってお願いしたんだよ」
 戦後横須賀には米軍が進駐してきて、海軍の施設はほとんどが米軍に接収された。
「当時は、進駐軍って言ったら、絶対だろ。ここで漁をしていても、船には近づいちゃいけなかった。それを霧が深い時に、漁をしていたのが、米軍の軍艦に気がつかないで、近づいて撃ち殺された出来事もあったよ。漁をやるのも命がけだったな」
 米軍が進駐した最初の頃は、漁師が殺されるトラブルも発生したが、生きるために海に出なければならなかった。米軍が海に捨てた食料を拾ったこともあったという。
「米軍は、古くなると何でも捨てるんだ。小麦粉も袋ごと海に流したりしてな。それを取ってきて、うどんにした。チーズが流れてきた時は、戦前にはそんなもの知らなかったから、石けんだと思って、家に持って帰って体を洗ったけど、全然泡が立たないなんてこともあったな。あとは、ソーセージがよく流れてきて、最初は米兵のウンコだと思っていたんだよ。アメリカのウンコは長いなとか言いながら、見てたんだけど、それが食い物だと後から知って、えらい驚いたこともあったな。当時は米軍のゴミが宝だったんだよ」
 漁師が魚を採るよりも、米軍の食料を漁っていた時代だった。
 戦後経済が右肩上がりに伸びはじめると、海は汚れていき、浦郷町の漁師たちも陸に上がる者が出始めた。石渡も戦前零戦を作っていた経験を活かし、電車の車両を作る工場で働いた。
「工場で働きながら、土日は海に出ていたよ。親父も昭和四十年代には漁師を止めた。めっきり魚が採れなくなっちゃったからな」
 専業の漁師というわけではなかったが、工場勤めをしながらも、海とは関わり続けた。先祖代々続けてきたワカメ漁は、今から三十年前に再開した。
「八百年以上、続けてきたものだから絶やしちゃいけないと思ったんだ」
 一途な思いで、毎年ワカメ漁を続けてきた。軍都横須賀には様々な生き方をする人がいることにどうしても触れておきたかった。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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