よみもの・連載

軍都と色街

第一章 横須賀

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 話がそれてしまったが、製鉄所と色街のルーツに話をもどそう。街の成り立ちから感じるのは、同じく海外と繋(つな)がったことにより、漁村から世界的な都市へと発展した横浜である。外国人向けの遊廓が作られたことなども同じである。軍都と商業都市という違いはあるものの、日本の近代化とは切ってもきれないのが、横須賀と横浜である。
 横須賀の街のほとんどは埋め立て地にできているが、そこに関わっていたのは地元の有力者と会津藩の御用商人で、彼らが遊廓の経営者としても名を連ねていた。
 最初は三軒の遊廓から街の歴史ははじまり、一八八八(明治二十一)年の大火によって焼失するまで営業を続けたのだった。
 大滝遊廓が移った先が、柏木田遊廓である。京浜急行県立大学駅を降りて、安浦の色街のある海の方向を背に切り通しの山道を歩いて行くと、跡地は横須賀の港町から隠れるようにひっそりとある。名残といえば、住宅街に不釣り合いな広々とした長さ三百メートルほどの一本道だけである。その両側にかつて遊廓が建ち並んでいた。
 柏木田遊廓を訪ねる前、大正時代に発行されていた新聞を図書館でめくっていたら、一本の新聞記事に巡りあった。
“娼妓二階から飛ぶ”という小見出しが付いていた記事によれば、三重県出身の伴小花(二十四歳)は家族の貧苦を救おうと、三年前から柏木田遊廓紀国楼の娼妓となったが、昨年より体調を壊し、金を貯めるどころか、楼主への借金ばかりがかさんでいった。それを苦にした伴小花は、楼の二階から飛び降り自殺を試みたのだが、死に切れず、路上で呻(うめ)いていたところ巡回中の巡査に保護されたと書いてあった。今から百年ほど前の出来事である。
 紀国楼は当時の地図によれば、大門から入って右から四番目の楼だったという。紀国という屋号からも紀伊半島の出身者が経営していたのだろう。地縁があることから、三重県や和歌山県から娼妓たちを集めていたのかもしれない。ちなみに柏木田遊廓には、三重県から働きに来ている娼妓が少なくなかった。
 鎌倉時代から、紀伊半島と三浦半島は水運で繋がっていて、売春島として知られている渡鹿野島(わたかのじま)周辺にも北条氏の拠点が存在していた。そして江戸時代には、水運で結ばれた江戸と大坂の中継地として、三浦半島と紀伊半島は重要な役割を果たした。歴史的な縁の深さから、柏木田遊廓で働く三重県出身の女性は少なくなかったのだ。
 横須賀の色街を語るうえで、触れておかなければならないのが、皆ヶ作(かいがさく)である。色街は横須賀の長浦湾という港からほど近い場所にある。
 私がはじめて長浦湾を訪れたのは、今から三十年ほど前、釣り糸を垂れるためだった。
 防波堤からは、海上自衛隊の艦船が行き来するのが見えて、その巨大さに驚いたことを覚えている。当時、中学生だった私は、長浦湾の近くに色街があることなど、知る由もなかった。
 東京湾の入り口にあって天然の良港である長浦湾が軍港として開かれていくのは、明治初年のことだった。
 今でも、自衛隊の艦船ばかりではなく、港の周囲を歩けば、戦前に遡る石積みの堤防、銃器を造っていた工場の建物などが残っている。
 長浦湾が帝国海軍の港となるのとほぼ時を同じくして、皆ヶ作の色街ができた。
 かつての色街周辺を歩いてみた。色街は海の近くまで迫った小山の麓にあった。港からは歩いて十分ほど。船を下りた海軍の水兵たちが三々五々歩いた景色を想像する。色街は太平洋戦争を経て売春防止法の施行まで続いていた。
 今ではバーや住宅街に様変わりしているが、アール・デコ建築などの建物が多く残っていて、往時を偲(しの)ばせている。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

Back number