よみもの・連載

軍都と色街

第二章 大湊

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 地下のホームから新幹線に乗り込んだ。しばらくすると、車窓から外の景色が目に飛び込んでくる。都心を抜けると、いつしか住宅はまばらになり、田植えを待つ水田や風除けの木々に囲まれた昔ながらの民家が目につくようになる。
 移りゆく景色を眺めていると、頭によぎるのは、戻ってくることがない過去のことだ。現れては消えていく、景色というものが、そうした思いにさせるのだろうか。鉄道などない明治時代以前の旅人たちであれば、青森への道は、ひと月を要したことだろう。時には雨に打たれ、炎暑に悩まされながら、己の足で歩き続けなければならなかった。感傷に浸っている時間などほとんどなかったに違いない。時間を要したからこそ名勝地を眺めた時の感動などは、現代人の比ではなかっただろう。
 もう二十年以上前のことになるが、実家のある横浜からバックパックにテントと食料を詰め込み、東海道を歩いて、京都を目指したことがあった。夏の盛り八月のことだった。
 江戸時代の旧東海道を現代の道に重ねた地図を手にいれ、それを片手に旧東海道を歩き続けた。江戸時代であれば、街道筋には日差しから旅人を守るための松が植えられ、数キロごとに茶店などがあったが、車社会である現代において、そんなものはどこにもなく、歩いて旅をするということは、殊(こと)のほか苦痛であることを思い知らされた。硬いアスファルトで足は豆だらけとなり、猛暑と車の排気ガスで顔は真っ黒になった。それでも何とか、京都まで歩き切り、三条大橋のたもとで、記念写真を撮った。新幹線でたかだか二時間のところを二週間もかかっただけに、感慨もひとしおだった。
 おそらく、そんな酔狂な旅はもうできないだろうが、新幹線の心地よい座席に踏ん反り返っていると、体のどこかに宿されている肉体を酷使した記憶というものが蘇ってきて、たるんでしまった我が身に何ともいえない気持ちになるのだ。
 新幹線という科学が生んだ乗り物は、二本の足を旅の手段にした時代からしてみれば、革命的である。人間の肉体と精神というものは、江戸時代から二百年も経っておらず、大きな差異は無いだろう。人間が体験しうる陸上における最速の移動手段に身を委ねるということは、心に普段とは違った感情を呼び起こさせるのかもしれない。新幹線の旅は、旅情を喪失させてしまったが、思考を巡らせるといった意味において、日常生活では考えてもいなかったことがふと浮かんだりする。そこに新幹線の魅力がある。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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