よみもの・連載

軍都と色街

第二章 大湊

八木澤高明Takaaki Yagisawa

斗南藩と色街


 大湊との関連で、触れておきたいのは斗南藩(となみはん)の存在である。幕末を知る人であれば、戊辰(ぼしん)戦争の悲劇が生んだ藩としてその名前が浮かぶことだろう。斗南藩とは薩摩、長州、土佐藩を中心とする新政府軍に戊辰戦争で敗れ朝敵の汚名を着せられた会津藩が再興を許された藩の名のことで、大湊と同じむつ市にある田名部に藩庁を置いていた。
 田名部には遊廓もあり、図書館で遊廓に関する資料とにらめっこをしていたら、田名部遊廓と会津の人にまつわる話を見つけたので、どうしても田名部遊廓跡も訪ねておこうと思った。
 斗南藩は表向き三万石ということだったが、実質の石高は約七千石。食うに困った藩士たちは、『佐井村誌』によれば、扶持米が給されたが、凶作の翌年ということもあり、渡されたのは輸入されたミャンマーの米で、胃腸を壊す者が続出し、死者が出るほどだった。
 藩士たちの中には止むに止まれず娘を売る者もいた。そのうちのひとりに綾という名の遊女がいた。『昭和遊女考』によれば、十三歳の時に綾は、仙台にあった小田原遊廓に売られた。字を書かせれば達筆、和歌を詠み、琴を弾いたことから、客はどんどんついた。故郷のことはほとんど口にしなかった彼女だが、唯一話してくれたのは、時おり口ずさむ会津に伝わる数え唄のことだった。
  
 ヒィトツひばり フータツふくろう ミーッツみみずく ヨーツよたか イーツッいすか

 新政府軍によって会津藩が降伏するまで長年暮らした会津の地で、心に刻まれた数え唄は、彼女と会津を繋ぐものだった。綾は両親が暮らしていたここ斗南に一度も帰ることなく、廓でコツコツと貯めた金を仕送りしながら暮らし、一九二七(昭和二)年に亡くなったという。
 明治時代に開かれた田名部遊廓では遊廓の経営者となった会津出身者がいた。『田名部町史』によれば、松本某は東北地方で牛を意味するベコを屋号とした遊廓で牛肉を出し客に人気を博したという。
 牛肉は明治の文明開化とともに急速に庶民の味として広まっていくが、色街との縁も深い食べ物である。当然ながら精のつく食べ物として、各地の色街周辺には牛鍋屋ができていった。今回興味を持ったのは、色街との関連だけではなく、牛鍋の材料である牛肉が会津藩とも関係が深いからだ。
 紹介した松本某が果たして、どのような人生を歩んできたのか、この史料だけではわからない。ただ斗南まで来ているということは、戊辰戦争における会津若松の戦いに身を投じた可能性が高いのではないか。ちなみに元会津藩士が経営していた遊廓というのを、私はもう一ヶ所知っている。それは埼玉県の熊谷で、やはり明治維新後に熊谷へと来て遊廓経営者となっていた。
 会津若松の籠城戦には、将軍のお抱え医師だった松本良順(まつもとりょうじゅん)も加わっていた。戦い最中、籠城戦で負傷した会津藩士たちに牛肉を振舞っていたという記録が残っている。ちなみに松本は、司馬遼太郎の小説『峠』の主人公で越後長岡藩の家老河井継之助が北越の戦いで敗れ、会津藩領の奥只見へと逃れて来た際にも、死の数日前に牛肉を食べさせている。
 当時の武士たちにとって、牛肉は戦場において己の力を最大限に引き出すために重要なものになりつつあった。もしかしたら田名部遊廓で牛肉を出した松本某も籠城戦の最中に牛肉を食べ、その味が忘れられず、店を開いたのかもしれないと思ったのだ。
 会津鶴ヶ城の籠城戦は熾烈を極め、日に二千発の砲弾が降り注いだという。松本某が籠城戦に加わり、それから数年して化粧の匂いが漂う色街で牛鍋屋を開いていたとしたら、それは劇的な人生だなと思わずにはいられない。
 そんなことを想像しながら、田名部遊廓の跡へ向かってみることにした。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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