よみもの・連載

軍都と色街

第二章 大湊

八木澤高明Takaaki Yagisawa

小松野遊郭の今


 すでに陽が暮れて、吹雪のような天候ということもあり、住宅街となっている遊廓跡を歩く人の姿はなかった。
 大湊を訪ねたのは、旧日本海軍によって色街が形成されたことに興味を持ったことと、もうひとつ大湊の小松野遊廓で働いていた娼婦の哀しい姿が印象的だった一冊の小説の存在があったからだ。
 その小説は、水上勉の代表作のひとつ『飢餓海峡』である。
 内容を簡単に説明すると、一九四七(昭和二十二)年九月、北海道で質屋一家三人が殺害され現金が奪われるという事件が発生する。容疑者は網走刑務所を出所したばかりの犬飼多吉ら三人の男たちだった。その直後に青函連絡船の沈没事故が発生し、その混乱に紛れて容疑者の男三人は本州への逃亡を試みるが、津軽海峡を渡る最中に仲違(なかたが)いをし、多吉は他の二人を殺害してしまう。
 結果的に盗んだ金を独り占めした多吉は、下北半島へと上陸する。逃亡を続けた多吉は、半島を走る軽便鉄道の中でひとりの女と出会う。それが大湊の小松野遊廓で働く娼婦の杉戸八重だった。
 多吉は八重から、家の貧しさから体を売らざるをえなかったという境遇を聞く。京都の山村で貧しい少年時代を過ごした多吉にとって、何気ない彼女の身の上話は、心に重く響いたのだった。八重の働いていた店に顔を出し、一緒に過ごした後、苦界から抜け出すには十分の金を置いて彼女の前から立ち去った。
 八重は、多吉のおかげで小松野遊廓での娼婦稼業から抜け出し東京へ出るが、東京に来てからも、世間的にまともな職業に就くことはできず、亀戸にあった赤線で娼婦となっていた。そうした日々の中、多吉の爪を持ち歩くなど、恩人のことを思い続けていた八重だった。
 八重は亀戸で、ふと目にした新聞記事に釘づけとなる。樽見京一郎と名乗る食品会社の社長が刑余者の更生事業資金に三千万円を寄贈したという記事で、その篤志家の樽見なる写真に写った人物は、十年前に大金を置いて立ち去った多吉以外の何者でもなかった。
 八重は樽見が食品会社を経営する舞鶴を訪ねるが、過去を消して生きてきた多吉にとって、八重の存在は邪魔者でしかなかった。あの事件の発覚を恐れた多吉は心中を装い、自身の書生と八重を殺めるが、八重の懐中から樽見に関する記事が見つかったことにより、偽装殺人であることが見破られ、多吉は逮捕され、最後は実況見分中に津軽海峡に身を投げる。
 水上勉という小説家が描いた物語は、むき出しの貧しさと混乱があった戦後直後という時代性、さらに水上自身が幸せとはいえない少年時代を過ごしたことも、多吉の生き様に投影されていることだろう。そして、貧しさゆえに体を売ることを強いられた八重という女性。
 それらの話は今から七十年以上も前の話であり、現代日本の生活からは、あからさまなかたちでは貧しさは見えない。それでも小説が極めて現実的で、今でも胸を打つのはなぜだろうか。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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