よみもの・連載

城物語

第九話『政道は潰えず(高知城)』

矢野 隆Takashi Yano

 土佐には上士と下士という明確な身分の隔たりがある。吉田家は上士だ。基本、関ヶ原の功によって土佐一国を得た山内家の家臣たちが上士、関ヶ原の際に豊臣に与(くみ)し領国を失った長曾我部家の臣たちのなかで山内家に雇われた者たちが下士となった。しかし吉田家は上士でありながら山内家の臣ではない。吉田家は元を辿(たど)ると、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)へと至る。秀郷の後裔(こうえい)、首藤義道(すどうよしみち)が相模(さがみ)の山内荘を領し、山内を名乗った。この義道の孫が二人あり、一人が山内、もう一人が領地にちなんで吉田と名乗ったのである。この吉田家が土佐に移り、後に長曾我部家に仕えた。これが東洋の家である。
 つまり吉田家は本来ならば下士にあたる。しかし、新たな土佐の国主となった山内家と吉田家は、元を辿れば首藤山内家に通じる。国主と同じ祖を持つ家系が下士では憚(はばか)られるということから、なかば特例のごとき形で吉田家は上士となった。
 上士ではあるが馬廻り格である。決して高い家格とはいえない。そんな東洋が先々代の国主、豊熈に見出されるのには、同じ軽格の士たちによって構成されていた“おこぜ組”の存在があった。おこぜ組は小姓組の馬淵嘉平(まぶちかへい)を中心に、当時大坂で流行した心学を学ぶ軽格の士たちの集団である。父から国主の座を譲られ、一門や重臣連中に支配されている国政を刷新し、有能な才を登用しようとした豊熈は、おこぜ組に人を求めた。勘定方小頭に抜擢された嘉平をはじめ、おこぜ組の者たちが政に参画する。しかし、城下である噂が広がった。それは、嘉平が人目を忍んで禁制である切支丹の教えを説いてまわっているというものだった。はじめ豊熈は嘉平をかばったが、目付の調査の結果、噂は間違いないということになり、おこぜ組は城内から一掃されることとなる。おこぜ組を失ってもなお、国政の改革を諦めきれない豊熈は、あらたな才を求めた。そこで白羽の矢が立ったのが、東洋であったのである。豊熈のもとで船奉行、郡奉行を務めたのが、城下にその名を知られる端緒となった。
「城下で儂等んことをなんち言いよるか叔父御は知っちょりますか」
「世人の噂なんぞに興味はないき」
 もはや己は世を捨てた者。容堂からの許しを諦めた東洋は、世間のことなどどうでも良かった。
「新おこぜ組ぃ言いゆうがです」
「上手いことを言いゆうのぉ」
 言って東洋は笑った。
 甥の象二郎(しょうじろう)をはじめ、乾退助(いぬいたいすけ)、福岡藤次(ふくおかとうじ)など、東洋の塾に集まる者たちは、中級から下級の上士の子息である。馬淵嘉平の元に集まった、おこぜ組の面々と変わらない。
「叔父御は禁制の教えなんぞ儂等に説いちょりゃせんですろ」
「馬淵嘉平もどうか解らん」
「そりゃ、どういう意味ですろ」
「高知の城下には、古狸がこじゃんと住んじょるきに」
「まさか豊資様の……」
「そいより象二郎」
 甥の邪推を断ち切るように、東洋はきつい口調で言い放つ。そして顔を甥にむけ、ぎょろりとした象二郎の目を正面から見据えた。
「こん前のおまんが提出した論は、おまんが書いた物(もん)と違おうが」
「ばれちょりましたか」
「当たり前じゃ」
 言って甥を睨む。
「あいは誰が書いた物じゃ」
「安芸(あき)の井ノ口(いのくち)村から城下に通って来ゆう下士です」
「名は」
「岩崎弥太郎(いわさきやたろう)ち言いよります」
「今度から儂んところに連れてこい」
 象二郎が丸い目をいっそう見開きながら、東洋に問う。
「下士ですろ」
「今は上士じゃ下士じゃ言うちょる場合じゃないきに。あんだけの貿易論を書くいうがは、よほど勉学に勤(いそ)しんだがじゃろう」
「母親に厳しゅう躾(しつ)けられたち、弥太郎は言いよりました」
「良き母を持ったものじゃ」
 後日、弥太郎は少林塾の敷居をまたぐことになる。東洋が少林塾で若者たちと触れ合う日々は、二年あまりに及んだ。

プロフィール

矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。

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