第三話 絵馬の花嫁
島村洋子Yoko Shimamura
寅吉はよろよろと身を乗り出した。
目がなれないのか何も見えなかったが、微(かす)かに潮の香りがする。
すると先程丁寧に挨拶した初老の男が、
「ここが手前どもの屋敷でございます」
と言ったのに驚いて振り返ったら、そこには大きな門があった。
両脇の門柱には丸に鳳蝶(あげはちょう)の家紋の提灯(ちょうちん)が掲げられ、あたりを煌々(こうこう)と照らしていた。
よくはわからなかったが何かめでたい行事でもあるらしく、屋敷の中ではざわざわと人の気配がする。
こんな夜遅くになんの行事が行われるというのだろう。
自分は夢でも見ているのか狸(たぬき)にでも化かされているのかと恐ろしくなって、寅吉は頬をつねった。
その時、番頭だかなんだかそれなりの押し出しの男が寅吉に、
「どうぞ、これをお羽織りくださいまし」
と何か黒い畳んだものを寄越した。
「な、なんですか、これは」
開いてみると、門柱の提灯と同じ家紋の紋付だった。
まわりの男たちは丁寧だったけれど有無を言わせぬ迫力があり、寅吉は黙ってそれを羽織った。
黙って見ていた番頭らしき男は満足そうにうなずき、
「立派なおからだの方はさすがによくお似合いになる。ささ、どうぞこちらへ」
と、足元を提灯で照らしながら寅吉を屋敷に招き入れた。
表の飛び石を歩きながら両脇の松や灯籠を見た寅吉は、これはとんでもない分限者(ぶげんしゃ)の家だとわかった。
寅吉は一晩で千両が落ちると言われる吉原の中でも一、二を争う大店の三浦屋に勤めているのでいろいろ装飾を凝らしたしつらえには驚かないが、この屋敷には突然金持ちになったのではない、なんとも言えぬ伝統のある豪華さを感じた。
しかしそんな由緒のある家が自分ごときになんの用だろうと思いながら、立派な玄関に着いた。
するととたんに歌が聞こえてきた。
これは祝言で歌われる、木遣歌(きやりうた)とかなんとかいう歌だったよなと寅吉が思った時に番頭らしき者が声を出した。
「花婿のおなりでございます」
は、花婿?
寅吉はその場にへたり込みそうになった。
- プロフィール
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島村洋子(しまむらようこ) 1964年大阪府生まれ。帝塚山学院短期大学卒業。1985年「独楽」で第6回コバルト・ノベル大賞を受賞し、作家デビュー。『家族善哉』『野球小僧』『バブルを抱きしめて』など著書多数。