よみもの・連載

吉原べっぴん手控え帳

第三話 絵馬の花嫁

島村洋子Yoko Shimamura

   四
 
「花魁、近頃、からだの調子はどうだね」
 階下ですれ違いざまに店主の春日屋幸兵衛(こうべえ)に尋ねられた龍田川は、
「おかげさんで元気でありんす」
 と返事をしたがその実、梅雨(つゆ)の蒸した空気にやられて毎日、憂鬱な気持ちだった。
「おお、それなら良かった。少し痩せたように見えたからね。なに年寄りの取り越し苦労というやつさ。このまま、元気に儲(もう)けておくれ」
 龍田川は軽く会釈をした。
 もともと簪(かんざし)やら何やらが重くて頭を深く下げられないこともあったが、稼ぐのはこちら、稼ぎの上前をはねるのはあちら、などと考えると関係が良くはならない。
 深くは関わらないこと、とりあえず形の上だけと言っても店主と女郎は親子なのだからと挨拶だけは丁寧にするように気を付けていた。
「あれ、お痩せになりんしたか」
 部屋に戻りぎわにもうひとりの売れっ子である花魁の一津星(ひとつぼし)にそう言われて龍田川はどきりとした。
 やはりそうなのだろうか。
 その夜は珍しく客を取らずに寝たのだが、明け方、胸を圧(お)されるような苦しさに驚いて目を覚ますと黒い影が横切ったように見えた。
 これは何か不吉なことでも起ころうとしているのか、と龍田川は八卦見(はっけみ)でも呼ぼうかと思った。
 下っ端の女郎は吉原の中にいる易者のもとに行き、悩み相談という名の愚痴を聞いてもらったりもできるが、花魁ともなるとそうはいかない。
 花魁は夢を売る仕事なので悩みがあるところを見せてはならない。とはいえ、吉原に売られて来た者の未来は上の者も下の者も行く先は同じようなものである。
 しかし考えてみれば、恨みを買うことはふつうの者より多いだろう。
 金持ちに見染められた、いつも良いものを着て良いものを食っているということで女に妬(や)かれることもあるし、いくら金を積まれてもどうにもこうにも嫌で虫唾(むしず)が走るような男は断ることもあるので、それで恨まれることもなくはない、と龍田川は自分の身の上を案じた。
「そんなわけでなにかのついでで良いから、お守りかお札をもらって来てくれないかね、悪縁や悪霊を切りたいんで、縁切りの神か仏に願をかけておくんなまし」
 龍田川はこの吉原のことはなんでもわかっているであろう遣(や)り手ばばあのおきぬにそう頼んだ。
 おきぬは、「お安い御用で」と返事をしたが、そういえば少し前から痩せたように見える龍田川のことが気になっていた。
 おきぬは髪結いの清吉と玄関で通りいっぺんの挨拶をする時に花魁が悪縁を気にしていると冗談めかして言ってみた。
 清吉は、
「まあこの商売、そういうことは多いでしょうな」
 とうなずきながら考えた。
 若いお客はまずいないと言っていたので、あの奉納された絵の男の恨みではないのかもしれない。
 ならばやはりたまたま浮世絵を見た絵師が、龍田川の絵に似せて花嫁姿を描いたことによるとばっちりを受けたということなのだろうか。
 清吉はとりあえずあの絵馬を誰が東八幡宮に奉納したのかを調べることにした。

プロフィール

島村洋子(しまむらようこ) 1964年大阪府生まれ。帝塚山学院短期大学卒業。1985年「独楽」で第6回コバルト・ノベル大賞を受賞し、作家デビュー。『家族善哉』『野球小僧』『バブルを抱きしめて』など著書多数。

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