第三話 絵馬の花嫁
島村洋子Yoko Shimamura
十三
龍田川はその日の朝、何日ぶりかで爽やかに目覚めた。
目覚めるといっても吉原の時刻なので、すでに昼の日なかである。
昨夜まで熱が高くて起き上がれなかったのが嘘のようである。
高麗(こうらい)の人参や頓服薬、煎じた茶や獣の肉をはじめ生の玉子やら、からだに良いと言われるものはありとあらゆるものをとったので結局、何が功を奏したのかわからなかったが、暗い森を当てもなくさまよっていたのがいま、無事に帰ってきたようだった。
「花魁、楽になったようでようがしたな」
遣り手ばばあのおきぬが嬉しそうに言うのを龍田川は聞いた。
「みんな花魁を心配しておられて、あの髪結いの清吉さんも枕元まではあがれないからと言って薬師如来様のお札を置いて行かれましたよ」
龍田川は清吉、という名を聞いて胸がきゅっとなるのを感じて狼狽(ろうばい)した。
もしかして自分は清吉に惚れているのだろうか。
花魁なんて稼業をしていると人を好きになるという感覚がいまひとつよくわからないが、歯並びの綺麗な清吉の明るい笑顔がぽっかりと頭に浮かんだまま消えなくなった。
「心配をかけましたなあ。明日には髪を結ってもらいましょうかね」
病み上がりだといっても、何日も休んではいられないのが売られた身のつらさである。
「花魁が大丈夫ならそういうことにしましょうか。そういや、昨日から一津星さんが調子を崩して寝てなさるんですよ」
おきぬの言葉に龍田川は驚いた。
「え。もしかしてわちきが病をうつしたんでありんしょうか」
一津星とは最近、直には話していなかったが、それでも狭い一つの家屋で暮らしているのだから、何か病がうつるということもないことはないだろう。
「いえ、たまたまだと思いますよ。他の女郎たちはなんともないし、こりんもおふくも今朝も元気に踊りのお稽古をしていますからね」
念のためにここ何日か離れていた禿(かむろ)たちの元気な様子を聞いて龍田川はほっとした。
みんな龍田川の回復を喜んでいたが、春日屋にひとりそれを喜ばない者がいた。
一津星付きの見習い遣り手ばばあのお糸である。
お糸は龍田川の回復と相反するように体調がすぐれなくなった一津星のことをそれはそれは心配して、
「牡丹の肉を買ってきます」
とひとり早足で出かけて行ったのだ。
お糸のことは四郎兵衛会所の番人たちも馴染みで女切符をわざわざ確認しようとはしなかった。
お糸はものすごい早足で獣肉を売っている両国ではなく、湯島に向かった。
東八幡宮に行って甥のために奉納した絵馬をたしかめようとしていたのである。
お糸にとって甥の丑蔵は亡き兄夫婦が残した一粒種で、お糸も息子のように可愛(かわい)がっていたのだがもともと体が弱く、ある朝突然、心の臓を押さえてうずくまったまま死んだという知らせが入った。
若いまま子孫も残さずに死んだ甥が哀れで葬儀のあいだじゅう泣いていたお糸だったが、死者の願いを叶えてくれる神社があると弔問客から聞き、値の張る絵馬を作ることにした。
- プロフィール
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島村洋子(しまむらようこ) 1964年大阪府生まれ。帝塚山学院短期大学卒業。1985年「独楽」で第6回コバルト・ノベル大賞を受賞し、作家デビュー。『家族善哉』『野球小僧』『バブルを抱きしめて』など著書多数。