第三話 絵馬の花嫁
島村洋子Yoko Shimamura
「この後、あんた、何かここで食べないかい?」
珍しく龍田川に誘われたが、清吉は丁寧に断った。
病み上がりの龍田川は前より色気の仕草を自分に見せるように思われたが、それは久しぶりの花魁に魅せられた気のせいだろうと、清吉は横に首を振って暗くなり始めた町を湯島に急いだ。
灯ともし頃の町は霞(かす)んで薄い桃色に見え、美しかった。
あの夜、おきぬと清吉は誰もいない東八幡宮の堂内に忍び込んだのである。
おきぬが照らす提灯の明かりだけを頼りに持参した木の箱を台にして清吉はあの龍田川が描かれた絵馬を外した。
暗い堂内は森閑として自分たちの呼吸しか聞こえない。
これのせいで大切な花魁に何かがあったとならば、大ごとである。
おきぬも龍田川のことは実の子のように案じているらしく、清吉を喜んで手伝ってくれた。
この絵馬のせいで龍田川が病んでいるのはおきぬにもわかっているらしいが、迷信のような気もして清吉は半信半疑だった。
薄明かりの中、外した絵馬の龍田川の上に清吉は糊(のり)をつけ、そこに紙の絵姿を貼った。
それは団扇絵(うちわえ)と呼ばれる七月に店の宣伝用に吉原で配られた一津星の美しい絵姿である。
「一津星さんには恨みはないけどこれで白状しやがる奴(やつ)が出てくるんで、しばらく辛抱してくださいよ」
自分に言い聞かせるように清吉はつぶやき、辰巳村の丑蔵と並んだ一津星の絵姿が暗い堂内の天井近くに飾られたのを見上げた。
清吉は何度かここに通ううちに団子屋の女から、あの絵馬に描かれた丑蔵の叔母というのはどうやら吉原の遣り手ばばあらしい、ということをつかんだ。
はたして吉原に遣り手ばばあは何十人もいるが、わざわざ龍田川を絵にする者など限られている。
そのうち、
「お糸さんは寂しそうですなあ、やっぱりたったひとりの甥御さんを亡くされたからでしょうな」
という噂を耳にした。
甥を亡くしたのは気の毒なことではあるが、なにも龍田川を道連れにすることはあるまいと清吉は考えながらあることに思い当たった。
ああ、そうか。
お糸はおきぬが嫌いなのだ。
直接の理由はわからないが、女同士が近くにいれば面白いことばかりではないだろう。
お糸は先輩のおきぬにいろいろ指導されるのがいやなのかもしれないし、おきぬが付いている龍田川のほうが少し人気があるのも腹立たしい理由なのかもしれない。
あるいは死んだ甥にこの世で一番のべっぴんをあてがいたいという単純な思いつきも考えられないでもない。
清吉とおきぬは掲げられた絵馬を見上げた。
一津星は暗闇にぼんやりとその色香を漂わせていたが、気のせいか丑蔵の顔は不満気であった。
「ここはひとつ勘弁してください。龍田川さんにはまだまだこの世にいてもらいたいんでさあ」
誰に言うともなく清吉はつぶやいた。
- プロフィール
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島村洋子(しまむらようこ) 1964年大阪府生まれ。帝塚山学院短期大学卒業。1985年「独楽」で第6回コバルト・ノベル大賞を受賞し、作家デビュー。『家族善哉』『野球小僧』『バブルを抱きしめて』など著書多数。