よみもの・連載

吉原べっぴん手控え帳

第三話 絵馬の花嫁

島村洋子Yoko Shimamura

   九
 
「ちょっと話を聞かせておくんなせい」
 と突然、呼び止められた時はまたややこしいことに巻き込まれるのかと身構えた四郎兵衛会所の寅吉だったが、相手が吉原内では有名な髪結いだとわかり、ついて行くことにした。
 寅吉はここのところ、ひとりでいるのが怖かったのである。
 久しぶりに食う細魚(さより)はさっぱりとうまく、目元涼やかで話上手の清吉といるのも楽しく、ついつい酒が進んだ。
「直(じか)に花魁たちと口が利けるなんて羨ましいですぜ」
 仕事の合間にその美しい花魁道中姿をちらっと見て憧れているだけの寅吉には清吉の仕事は夢みたいな話だ。
「いや、なにしろ気に入っていただいていくらのことですからなかなかに気を使いますもんで」
 と言いながら以前、湯島で気に入らない髪をぐちゃぐちゃにした気の強い女がいたことを清吉は思い出した。
 こちらを睨(にら)んで悪態をついたあの女ももういい年になっていることだろうが、あのことによって、こちらが良いと思ってもお客が気に入らなければ一巻の終わりなのだと身に染みてわかった意味のある出来事だったといまになって清吉はありがたいと思っていた。
 そしていまの自分の技ならば、あの女を十分満足させられる、という自負もあった。
 今日、四郎兵衛会所の寅吉を誘ったのはとんでもない噂を耳にしたからである。
 いわく、四郎兵衛会所の寅吉は幽霊女と一緒になったらしいというのだ。
 清吉はそのことについて直接、質問はしなかったが酔いに任せて寅吉が話すのを気長に待っていた。
 清吉は自分が見た不思議な夢について話した。
「いえね、雪の晩でね、向こうに婚礼だか葬式だかわからない列が通るのをこちらからぼんやり見ているというわけのわからない夢なんですがね」
 もちろん嘘(うそ)である。
「婚礼だか葬式だかわからない?」
 寅吉は鸚鵡(おうむ)返しに言った。
「そうなんですよ。変な話ですよ、まあ、夢ですからね」
 赤い顔だった寅吉の目が真剣になったのを清吉は見逃さなかった。
「俺は実際に、婚礼だか葬式だかわからない式を知っています」
「え?」
 声を潜めた寅吉に釣られるように清吉も小さく反応した。
「俺は信じられないものを見たんです。いえ五両もいただいちゃったもので、ありがたいといえばありがたかったんですが。誰も信じてくれないもんであんまり話しちゃいないんですが。竜宮城(りゅうぐうじょう)へでも行ってたんですかねえ。さすればあっしは浦島太郎(うらしまたろう)かな」
 寅吉は内緒ですよ、と清吉に夢のような信じられない話を始めた。
 そして寅吉は、
「変な話だとは思うんですが、逆に男が死んだ場合は絵姿を奉納することもあるらしいんですよ。大塚のほうの立派な身なりの人でしたがね」
 と言った。

プロフィール

島村洋子(しまむらようこ) 1964年大阪府生まれ。帝塚山学院短期大学卒業。1985年「独楽」で第6回コバルト・ノベル大賞を受賞し、作家デビュー。『家族善哉』『野球小僧』『バブルを抱きしめて』など著書多数。

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