よみもの・連載

軍都と色街

第六章 大阪 和歌山

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 遣唐使船が出船した住吉津は、住吉大社のすぐ脇にあった。万葉の時代、住吉大社から東はすぐ海だった。大陸だけでなく、住吉津を利用する船は、航海の安全を住吉大社に祈ってから、出航したという。遣唐使船というのは、あくまでも時の権力者が組織した公的な船であるが、海商のような者たちもいたという説があり、私的な船も少なからず往来したという。そうした経済活動が営まれたからこそ、遊女の存在が生まれた。
 水運と繋がった大阪の色街の伝統は、その後も受け継がれていき、江戸時代はじめには、川口の遊里が生まれた。
 実際に、川口の遊里のあった場所を訪ねてみた。その場所はJR大正駅からほど近い、大阪市大正区三軒家付近だった。
 遊里は江戸時代前期には、かなりの賑わいをみせた。その時代には、川口遊里図屏風が描かれている。屏風を見ると、木津川には多くの船が行き交い、岸には遊女と客が遊ぶ揚屋がびっしりと建ち並んでいる。水の都であった大坂は、出船千艘、入船千艘≠ニいわれたが、その象徴ともいうべき場所が川口の遊里だった。
 遊里がいつできたのか、はっきりとしたことはわかっていない。三軒家周辺は、豊臣秀吉の時代に木津勘助の新田開発によって、埋め立てられている。それまでは、難波の八十島と呼ばれるほど小さな島というか洲があるだけで、人はほとんど住んでいなかった。
 新田ができ、人が暮らすようになり、三軒家という地名がつけられた。この場所は大坂の入り口であるが、かつては町の中心部から最も離れた場所でもあった。為政者からしてみれば、色街を置いておくには都合の良い場所だったことだろう。
 江戸時代に入り、本格的な町づくりが始まると、市中に散在していた色街は、公許を得て作られた現在のオリックス劇場の周辺にあった新町遊廓に吸収された。それは一六五七(明暦三)年のことで、それ以降川口の遊里は川面に行灯(あんどん)を照らすことはなくなったのだった。

 川口の遊里は、木津川に沿って形成されたわけだが、今では護岸によって岸は固められていて、行き交う船の姿も、賑やかな三味線の音も聞こえてこない。一方で、大正駅の周囲には、小さなスナックや飲食店が密集していて、どことなく猥雑な空気が漂っている。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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