よみもの・連載

軍都と色街

第六章 大阪 和歌山

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 細い路地を歩いていると、沖縄料理屋も目につく。大正区は、沖縄出身者が人口の四分の一を占めるリトル沖縄である。
 この場所にリトル沖縄が形成されたのは、大正時代になってからのことである。江戸から明治へと時代が移ると、大正区を含めた大阪府から兵庫県にかけての大阪湾の沿岸には工業地帯が作られていった。大正区には紡績会社や造船工場、自動車工場などが次々と建設された。それらの工場は、安い給料で雇える従業員を必要とし、大阪近郊の農村だけではなく、九州や沖縄からも仕事を求める者たちを招き入れたのだった。
 沖縄から人々が出稼ぎに来るようになったのは、明治三十年代のことだという。出稼ぎが盛んになるのは第一次世界大戦の頃のことで、沖縄と大阪の間には定期航路もあったことから、人々が往来しやすかったのもその一因だった。ひとつ付け足しておけば、大阪と韓国の済州島を結ぶ航路もこの頃でき、出稼ぎ目的の韓国人が多く大阪へと流れるきっかけとなった。彼らはここ大正区や生野区の鶴橋周辺にコミュニティーを形成したのだった。彼らが工業都市大阪を支えた存在であったことは言うまでもない。
 第一次世界大戦が終わり、戦後恐慌さらには世界大恐慌など世界的な不景気の波が日本を襲うと、沖縄の人々はそのあおりをもろに食った。日本国内だけでなく、海外移住すらも厳しくなり、出稼ぎ者による送金が減り、さらに沖縄本土では不景気に伴う農産物価格の下落も重なって現金収入を得ることが困難になった。食物が底をついた人の中には、毒性が強く普通なら食べることはないソテツまでも食べ、一家全員が中毒死するなどの悲劇が生まれ、ソテツ地獄と呼ばれた。
 工業地域となった大正区周辺は、東洋のマンチェスターとも呼ばれた。産業革命により人口が密集したマンチェスターでは、今日にも繋がる様々な社会問題が発生する。当然ながら、大阪においても人口が集中することにより、大正区の湿地帯には沖縄出身者が住むバラックが建ち並び沖縄スラムなどと蔑称された。スラムが形成されたのは、大正区ばかりではなかった。浪速区日本橋界隈は、江戸時代から紀州街道が通っていたこともあり、木賃宿が並び、無宿人などが暮らす貧民窟となっていたが、明治時代に入ると、人々が流入したことにより貧民窟はさらに拡大した。一九〇三(明治三十六)年、大阪で第五回内国勧業博覧会が開催される際に、見学に訪れる皇族の目につくのは如何なものかということで、現在の西成区にスラムは強制的に移転させられたのだった。
 
 私は神奈川県横浜市の出身であるが、実家から車で三十分ほどの場所に、沖縄から仕事を求めてきた人々が多く暮らす地区がある。横浜市鶴見区潮田という場所で、鶴見川の河口に広がる町だ。
 潮田という言葉からもわかるように、もともとは満潮ともなれば、人の膝まで潮水が流れ込んでくるような、湿った土地だった。それが明治時代から大正時代にかけて実業家、浅野総一郎が埋め立て事業を行い、セメント工場や造船所を作ると、誰もが知る京浜工業地帯の一部となったのだった。
 横浜でも大阪と同じように、沖縄の人々は労働者として必要とされた。横浜の場合はさらに、アメリカ大陸へと向かう移民船の出港地であったことから、京浜工業地帯で働いた沖縄の人々の中には、南米移民として海を渡る者も少なくなかった。私は何度も潮田を歩いているが、沖縄料理屋だけでなく、ブラジル料理屋もあり、それらの店は、海を渡った沖縄移民の子孫たちが経営している。
 横浜という街は、江戸時代末期から明治、大正にかけて、もともとは日本各地、さらには中華街があることからもわかるように世界からひと旗あげようという野心を持った者たちが流れ込み形づくられた。二〇〇〇年代初頭までは、横浜の黄金町で外国人娼婦が体を売っていたこともあり、ぎらぎらとした空気を街から感じることが多々あった。二〇〇五(平成十七)年におこなわれた一斉摘発により娼婦たちの姿は消えた。かつて落書きだらけで、あまり治安のよくなかった赤レンガ倉庫は、今では観光地となった。横浜の街から色気や殺気のようなものもあまり感じなくなったが、潮田という町には、殺伐といったら語弊があるかもしれないが、大陸をまたいで人が動くことによる昔の横浜から感じた活気を感じるのだ。
 大阪の大正区と横浜の潮田は、まさに姉妹都市といってもいいだろう。大正区の三軒家を歩きながら、なんとなく親しみを覚えたのだった。
 葦(あし)の原だった湿地が戦国時代の終わりに埋め立てられ、大坂の町が江戸時代に天下の台所と呼ばれるようになると、三軒家には色街ができた。彼女たちが生きた痕跡は、まったく残されていない。さらに時代が下って、沖縄から大阪へと人々が流れてきた。その人たちの営みはリトル沖縄という形で今も目にすることはできる。ただ、それも移ろいやすい時代の流れのなかでいつかは、川面に浮かんでは消える泡のような、儚(はかな)い存在に思えてならない。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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