よみもの・連載

軍都と色街

第六章 大阪 和歌山

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 水運とともに色街が生まれ、明治時代になると、大阪一の規模を誇った松島新地は、軍隊の存在によって繁栄を迎えた。それは、客を船乗りなどに依存していた娼婦たちが水辺からは切り離されていったことを意味した。現在の大阪城の場所に第四師団の師団司令部が置かれ、経済ばかりではなく、軍都という色合いも濃くなったことの証しでもあった。
 大阪城の本丸には、今も第四師団が司令部として利用した建物が商業施設に生まれ変わって残されている。司令部跡は一九三一(昭和六)年に再建された大阪城本丸と同時期に建てられている。中世ヨーロッパの教会を彷彿とさせる重厚なロマネスク様式の建物は、どっしりとした安定感がある。建築物としては再建された大阪城よりは優れているように思う。
 西南戦争で奮戦したという大阪鎮台からの流れを汲(く)む第四師団であるが、司令部の立派な建物とは裏腹に戦場での評判は芳しくない。「またも負けたか八連隊」という俗謡にまで歌われたのは、第四師団の中核を成していた歩兵第八連隊のことである。
 私もビルマ戦線の戦記物を読んだ際に、八連隊の兵隊が戦意に乏しく、さっさと逃げていくというような記述を読んだことがあった。一方で、丹波の鬼と呼ばれ、丹波篠山に駐屯していた第四師団隷下の歩兵第七十連隊は勇猛で知られていたことから、第四師団の名誉のために言えば、連隊によっては勇猛な部隊もあった。八連隊に関しては、都市部から召集された兵士たちが多く、言ってみれば無駄死にをせずに合理的に戦ったのだともいえる。八連隊の存在というのは、日本陸軍の部隊が常に天皇陛下万歳と叫んで突撃したわけではなく、多様性とまではいかないが、連隊によって多少の個性があったということを物語っている。

軍都大阪と色街


 大阪の中心部ともいえる大阪城に第四師団が鎮座する軍都大阪。それを語るうえで外せない存在がある。それは大阪城の東側にあって、当時アジア一とも言われた兵器工場、大阪砲兵工廠(こうしょう)である。
 砲兵工廠は一八七〇(明治三)年に産声をあげて、大阪造兵司として設置された。大阪に砲兵工廠設置を提案したのは、戊辰(ぼしん)戦争で長州藩の奇兵隊を率いて活躍し、軍事の天才といわれ明治政府の兵部大輔となり日本陸軍の祖ともいわれた大村益次郎だった。
 大阪を大村が選んだのは、いくつか理由がある。戊辰戦争後にこれから政府が目を光らさなければならないのは、九州を中心とした西南諸藩の不平士族であり、彼らを監視する意味でも東京では遠すぎて、大阪が最適であること、海からも近く海上輸送の便も良いこと、そして、警備する上でも大阪城であれば容易であること、さらには東京に軍事関連の施設を集中させることは、危険であることなどがあった。
 先見の明があった大村であるが、一八六九(明治二)年に大村の兵制改革に不満を持った不平士族に襲撃され命を落としてしまう。彼は完成した砲兵工廠を目にすることはなかった。
 大村が命を落とすきっかけとなったのは、武器の製造のことばかりではなかった。これからは士族だけに武器を持たせるのではなく、農民であれ商人であれ、国民をおしなべて兵士にする国民皆兵制度を推進したことにあった。
 大村自身が経験した戊辰戦争で、士族ではない者たちで編制された奇兵隊が、武士以上の活躍を見せたことにより、農民であってもしっかりとした訓練を施せば、十分な兵力になることや封建制の残滓(ざんし)である士族だけに頼っていては、そもそも兵士の絶対数が足りず、近代戦争を勝ちぬくことはできないという思いから、徴兵制が近代国家には必要だと考えたのだった。徴兵制の導入で、日本各地に師団が置かれるきっかけとなり、軍都が形成され、それに付随するかたちで遊廓が置かれることにもなった。こんなことを言っては、大村益次郎に怒られるかもしれないが、西南戦争によって松島遊廓が大きな発展を見せたように、いわば彼は軍都における色街の生みの親でもある。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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