よみもの・連載

軍都と色街

第六章 大阪 和歌山

八木澤高明Takaaki Yagisawa

今里新地のルーツ


 大阪砲兵工廠が民間に発注したことにより、農村地帯で水田が広がっていた東大阪を中心に町工場ができていったと前に記した。一方で大阪には、大阪砲兵工廠ばかりではなく、紡績業や造船業も大いに発展し、大正末期から昭和にかけて、東京の人口を抜き大大阪と呼ばれるほどの都市となった。
 市街地が拡大していくと、かつては街の外れであった道頓堀に隣接していた難波新地などの色街もいつしか市街地に呑み込まれた。それにより、難波新地が大火の後、当時大阪の外れであった飛田に移転することになる。色街の跡地はそのまま空白地帯となるのではなく、新たな風俗がそこで勃興する。それはカフェーである。純粋にコーヒーなどを提供するカフェではなく、女給たちの色気を売り物にするのがカフェーだった。大阪のカフェーは市中に多くあって、女給のなかには私娼となるものが少なくなかった。戦前の調査では、芸妓や娼妓の数より、酌婦と呼ばれたカフェーの女給の数の方が多かった。
 カフェーで働く女性が多かったのは、遊廓とは違って、カフェーが格式ばっておらず、気軽に遊べる場所だったからである。時代を遡れば、江戸時代の吉原遊廓は、庶民にとってハードルが高く、市中には岡場所と呼ばれる私娼窟が寺社のまわりを中心に形成された。吉原自体も、位の高い遊女は敬遠されるようになり、今日のちょんの間に通ずる切見世(きりみせ)が人気を呼んだ。大阪でのカフェーの流行は、大阪に新たに流入した労働者たちにとって、カフェーの方が居心地が良かったことの証しでもあった。
 ただ、そのカフェーも衰退していくことになる。戦前から戦中にかけて、兵士の稼働率が下がることから花柳病と呼ばれた性病の蔓延することを恐れた軍部は、師団や連隊の駐屯地からつかず離れずの距離に遊廓を置き、娼妓たちには定期的に検診を受けさせ管理した。その監視下から離れる私娼たちを快く思わなかった。その巣窟であるカフェーは、一九三三(昭和八)年には、特殊飲食店営業取締規則により警察の管轄下に置かれるようになり、勢いを失っていったのだった。
 大阪府は、人口が急増し軍都でもあった大阪で、私娼窟を取り締まるだけではなく、一方では新たな色街を許可している。それが生野区にある今里新地である。
 今里新地ができたのは、一九二九(昭和四)年のことだった。開業した当初は十三人の芸妓からスタートした。田んぼを埋め立てて作られたため、開業当初はひと雨降れば、道がぬかるむだけではなく、建物が浮き上がるような状態だったという。芸妓たちはお座敷にあがるのに、男衆に背負われて向かったそうだが、時には転ぶ者もいて、泥まみれになってお座敷にあがることもあったと、『今里新地十年史』(今里新地組合)は記している。そんな状態からはじまった今里新地だったが、年々発展していき、戦後には百軒の店に三百人の娼婦がいるまでに規模が拡大した。その背景には、今里新地の経営者の努力とともに、大阪という街が軍都、そして工業の街として発展したことがあった。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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