よみもの・連載

信玄

第五章 宿敵邂逅(しゅくてきかいこう)2

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 そして、岐秀禅師を大井家の菩提寺(ぼだいじ)である長禅寺(ちょうぜんじ)に招き、晴信に「四書五経(ししょごきょう)」「孫子(そんし)」「呉子(ごし)」などを学ばせたのが大井の方である。
「これからは、この身が寄親として一門の者たちの支柱となり、庇とならなければならぬ。そして、皆の命が折り重なる信濃一国を制覇することが、己に課された役目なのだ」
 その答えに至り、晴信は籠居(ろうきょ)を解いて立ち上がる。
 母の遺骨を長禅寺の墓所に納めた後、はっきりと態度を切り替えて政務に戻った。
 それを見た重臣たちも、やっと喪が明けたことを確認し、安堵の息をつく。
 すでに文月(ふみづき/七月)も終わりに差しかかっていた。
 晴信は小県(ちいさがた)の真田(さなだ)幸綱(ゆきつな)と頻繁に連絡を取りながら、村上義清の動向を睨み、出陣の支度を進める。だが、それは葛尾(かつらお)城攻めではなく、小笠原家の残党がいる安曇(あずみ)郡と水内(みのち)郡へ侵攻するためだった。
 標的は安曇郡の小岩嶽(こいわたけ)城を本拠としている国人衆、小岩盛親(もりちか)と木崎(きざき)湖畔の森(もり)城々主、古厩(ふるまや)盛兼(もりかね)である。
 この者たちは小笠原長時と連係して諏訪へ攻め入った仁科(にしな)家の支族であり、仁科盛康(もりやす)が降伏した後も抵抗を続けていた。
 さらに、その北側が水内郡であり、大日方(おびなた)直忠(なおただ)の小川(おがわ)城がある。この者もまだ態度をはっきりさせておらず、晴信はこの三つの城に狙いを定め、動き出そうとしていた。
 まずは甲斐の府中から諏訪の上原(うえはら)城に入り、それから三千の兵を率いて松本平の深志(ふかし)城へ向かった。
 そこでは城代となった馬場(ばば)信房(のぶふさ)が待っており、安曇郡と水内郡の状況を報告する。
「小岩盛親に対し、降伏して開城するよう勧告いたしましたが、返答はありませぬ。安曇の小岩嶽城で籠城する構えをとり、こちらの出方を窺(うかが)っておりまする」
 その話を聞き、晴信が訊ねる。
「城兵はどのくらいと見ている?」
「五百前後ではないかと」
「さようか。敵もわれらの兵数を知っていながら、あくまでも抵抗するつもりか」
 晴信は松本平から安曇郡や水内郡に風聞が広がるように、あえて三千の軍勢を見せつけるように行軍していた。
 もちろん、沿道で窺う民の中に、必ず敵の物見が潜んでいると確信していたからである。
「森城の古厩盛兼も返答を保留しておりまする」
「小岩がいかように動くか、静観しておるのだな」
「はい。ところが、水内郡の大日方直忠だけは、われらの勧告に対し、二者とはまったく違う返答をしてまいりました。ただいま武田家に恭順すべく家中の意見をまとめておりますので、もうしばらくの時を、と」
「時を稼ぐための方便ではないのか?」
「そうではないようにござりまする。御屋形様が御出陣なさる前から、伊賀守殿が流言蜚語(りゅうげんひご)の計を仕掛け、武田の大軍が押し寄せるという風評が溢(あふ)れ返っておりまする。また、伊賀守殿の手下、透破(すっぱ)の蛇若(へびわか)という者が調べたところによりますれば、大日方直忠には五人の息子がおり、これらの者の中で意見が分かれているようにござりまする。どうも、嫡男の大日方直経(なおつね)は抗戦を唱え、残る四人の弟どもは武田家に降(くだ)るべしと申しているのではないかと。大日方直忠は頑固な嫡男に苦慮しているのではありませぬか」
「さようか。ならば、当面は小岩嶽城の攻略に専念するか」
「承知いたしました」
 馬場信房が頷いた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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