よみもの・連載

信玄

第五章 宿敵邂逅(しゅくてきかいこう)2

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 川中島は善光寺の南を流れる犀川と、善光寺平の北東から南西に向かって大きく斜めに走る千曲川に挟まれ、扇状に広がる沃野である。
 水利に恵まれた平坦な大地は耕作のために切り開かれ、稲作だけではなく林檎(りんご)や白桃の名産地ともなっていた。
 その川中島を日本扇(ひのもとおうぎ)と見立てるならば、布施の里(篠ノ井〈しののい〉)は日の丸の如く、川中島のほぼ中央に位置している。
「何もない平地ではないか。城にも拠(よ)らず、野戦の陣も構えておらぬということか?」
 訝しげな表情になり、晴信が訊く。
「すぐ先に、千曲川の雨宮渡(あめみやのわたし)があり、この時期は水嵩(みずかさ)も少なく、そのまま渡河いたせば、屋代城に至りまする」
「敵の狙いは、われらに寝返った屋代正国か。早馬で千曲川の畔(ほとり)に兵を出し、渡河を狙うて迎え撃てと伝えよ。笹洞城の室賀信俊にも屋代を援護させよ。真田にはまだ動くなと伝え、伊賀守に敵の様子を探らせよ」
「はっ!」
「念のため出陣の支度も怠るな」
「承知いたしました!」 
 馬場信房が弾かれたように走り去る。
 ――村上義清が塩田城から姿を消して四日ほどしか経っておらぬ。越後に泣きついたとしても、この短期間で長尾景虎が自ら出張ってくるとは考えられまい。北信濃から逃げた者を先陣とし、いかにも越後の国主が出陣してきたと見せかけているのであろう。
 晴信はそのように踏んでいた。
 ――もしも、この機で長尾景虎が出張ってくるとするならば、五千もの兵を貸した村上義清がすぐに敗走すると推測し、八月の間に出陣の支度を済ませておかなければならぬはずだ。普通に考えるならば、帰趨(きすう)の定かではない合戦が行われている最中に、そんな無駄なことをするはずがなかろう。行人包にしても、おそらく風評を利用し、武辺に優れた家臣に化装(けそう)させたのであろうて。まるで児戯だな、長尾の小童(こわっぱ)よ。
 この時はまだ事態を楽観していた。
 ところが、たった二日間で信じ難いことが起こる。
 雨宮渡を封じるために出陣した屋代勢が、越後勢の先陣に蹴散らされ、そのまま総軍に千曲川を渡られてしまった。
 布施で武田方の先鋒を破った越後勢は、勢いを止めずに屋代城へ向かう。
 その兵数を怖れた屋代正国は城を出て、南の荒砥城へ退いて籠城しようとした。
 ところが驚いたことに、越後勢は蛻(もぬけ)の殻(から)となった屋代城には眼もくれず、さらに荒砥城へと総軍を進める。一気に城を力攻めし、耐えきれなくなった屋代正国は千曲川沿いを東南に撤退し、武田方の塩田城へと逃げ込んだ。
 これを知り、救援に向かおうとしていた室賀信俊は慌てて笹洞城へ戻る。
 難なく荒砥城を落とした越後勢は間髪を容(い)れず、塩田城とは反対側の西南に先陣を進め、青柳(あおやぎ)城に火を放つ。
 これに驚いた青柳清長(きよなが)は城から撤退し、南西にある虚空蔵山の会田城へ逃げ込もうとした。
 しかし、越後勢の先陣は青柳城には眼もくれず、青柳勢を追って会田城へ迫る。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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