第五章 宿敵邂逅(しゅくてきかいこう)2
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「御屋形様、お怒りを懼れずに申し上げまする。前の一戦の直後、景虎は二千余の兵を率いて京へ上っておりまする。昨年の叙爵と官途叙任の御礼、そして、治罰の御綸旨の御礼をするためだとか」
跡部信秋の話に、晴信は思わず絶句する。
しばらく眼を尖(とが)らせて黙り込んでから、口を開く。
「……上洛(じょうらく)のために、あの戦をあのような形で切り上げたというのか?」
「どうやら、そのよう……」
「おのれ! どこまで余を侮るつもりか!」
ついに怒声を発してしまう。
「……申し訳ござりませぬ。されど、これはまことの話のようで……未だ、景虎は越後に戻っておりませぬ」
首を竦(すく)めながら、信秋が言う。
さすがに呆(あき)れ返り、晴信は細く長い息を吐く。
そうして、己の怒りを鎮めようとしていた。
「とんでもない慮外者(りょがいもの)か。……あるいは、ただ畏(おそ)れを知らぬだけなのか。はたまた、何か、途轍もない勘違いをしておるのか。……まったく理解できぬ」
晴信が言った通り、長尾景虎の行動は常人の想像を遥かに超えている。それが破格の器ゆえなのか、畏れを知らない愚昧者に過ぎないのかは、判然としなかった。
「……とにかく、景虎に関しては、おかしな風評が溢れ返っておりますゆえ、その実体が摑めませぬ」
跡部信秋が恐縮しながら言葉を添える。
晴信は眼を閉じ、己を落ち着かせようとした。
一瞬、「すぐに越後へ攻め込むぞ!」という言葉が脳裡(のうり)をよぎる。立ち上がって、そう叫びたかった。
それを打ち消すため、しばらく、深い呼吸を繰り返し、心を鎮めようとする。
やがて、ゆっくりと瞼(まぶた)を開き、晴信が呟く。
「そなたの報告がまことなのだとしたら、根本から対処を考え直した方がよいかもしれぬな。まともに相手をしようとすれば、こちらが莫迦(ばか)を見るだけだ。ここは冷静になり、謀計で揺さぶるしかあるまい」
「御屋形様、仰せの通りにござりまする。それについて、ひとつ、良い話を仕入れました。越後国刈羽(かりわ)郡の北条(きたじょう)高広(たかひろ)が景虎に大きな不満を抱いているようなので、内応を持ちかけてみてはいかがにござりましょう」
「越後の刈羽郡とは?」
「春日山城から東に十四里(約五十六キロ)ほど離れたところにござりまする。そこに北条城がありますので、もしも、ここで謀叛が起きますれば、景虎は信濃にかまけている暇はありませぬ」
「その北条が叛旗を翻している間に、中野の高梨政頼を叩けるやもしれぬな」
「はい。北条の調略は、是非、それがしにお任せいただけませぬか」
「よかろう。されど、それに加え、もうひとつぐらい揺さぶりをかけたいところであるな」
「善光寺平に幾人か気になる者たちがおりまする。北条高広を釣るついでに、そちらの方にも餌を撒(ま)いておきまする」
「入念に仕掛けをせよ」
「承知いたしました」
「大儀であった」
晴信はやっと落ち着きを取り戻した。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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