よみもの・連載

信玄

第五章 宿敵邂逅(しゅくてきかいこう)2

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 ――それでも、二日間で四つもの城を抜いた手腕だけは本物だった。越後勢が再び北信濃に現れる前に埴科を固め、善光寺平を制しておかねばならぬ。
 晴信は己の庭先を土足で踏みにじられたような怒りを覚えていた。
 そして、跡部信秋を呼ぶ。
「伊賀守、この戦に長尾景虎が出陣していたのかどうか、確かめてくれぬか。越後まで忍び込ませても構わぬ」
「承知いたしました」
「ついでに、善光寺平の周辺にいる国人衆や地頭(じとう)で、まだ態度を明確にしていない者どもを洗い出してくれ。切り崩しを考えたい」
「御意」
 跡部信秋が頷く。
 諜知によって後から明白になるのだが、この一戦こそがまさに晴信と長尾景虎の川中島を巡る戦いの始まりだった。
 透破の蛇若は手下を連れて善光寺平から越後へ忍び込み、一ヶ月半後に戻って来る。
そして、その間に調べ上げたことをすべて、跡部信秋に報告した。
 その話を携え、信秋は甲斐の府中へと戻った。
「御屋形様、越後の長尾景虎について、だいぶ色々なことがわかってきました。少しばかり雑多な話になるやもしれませぬが、ご報告申し上げまする」
「構わぬ。続けてくれ」
「結論から申し上げますが、前(さき)の戦で越後勢を率いていたのは、景虎当人にござりました」
 跡部信秋の話に、晴信が頷く。
「やはりな」
「われらに信濃を追われた村上義清が高梨政頼を通じて援兵を願った時、景虎は快く五千の兵を貸し与えたそうにござりまする。それにより、村上は葛尾城と塩田城を取り戻しましたが、越後勢のほとんどは無事のまま、斎藤朝信という将が越後に連れ帰っておりまする。その時、景虎は戦支度を行い、再びわれらが村上義清を破ると確信していたようにござりまする。斎藤朝信と兵にそのまま待機を命じ、小笠原長時を信濃の嚮導役に抜擢(ばってき)し、当人は出陣を待っていたと」
「そして、村上義清はわれらに攻められ、景虎の読み通り、塩田城から落ち延びたか」
「はい。あの時、われらが討ち取ったのは、ほとんどが高梨政頼の兵にござりまする。村上が八月二十八日に春日山城へ逃げ込み、助けを願った時、景虎をはじめとする越後勢の戦支度は済んでおり、あの者は『甲斐の武田晴信を推し量りに参る』と家臣たちに嘯(うそぶ)き、二日後に出陣したと」
「余を推し量る?……それであの戦か」
「御屋形様、もうひとつ、聞き捨てならぬ話を耳にいたしました。景虎が関東管領の山内上杉憲政を助けると決めてから、京の御主上(後奈良天皇)に治罰の御綸旨を賜ったと、越後ではもっぱらの評判になっておりまする。その御綸旨には越後の隣国も罰することを許すと記されているとか」
「御主上の御綸旨だと!?……なにゆえ、さようなものが下賜される」
「わかりませぬ。……されど、小笠原長時が越後へ逃げ込んだことで、われらが信濃守護職の領地を押領した逆賊だと吹聴しているようにござりまする」
「押領の逆賊?……どこまで戯言(ざれごと)をほざきよるか!」
 さすがに晴信も怒りを隠せない。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

Back number