よみもの・連載

信玄

第五章 宿敵邂逅(しゅくてきかいこう)2

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

   四十八 

 おのれ、真田幸綱めが!
 村上義清が床に盃を叩(たた)きつける。
「真田の調略(ちょうりゃく)で寝返ったのは、大須賀(おおすが)だけか?」
 その問いに、傅役の出浦(いでうら)国則(くにのり)が力なく首を横に振る。
「……おそらく、室賀(むろが)信俊(のぶとし)の親子。……さらに屋代(やしろ)正重(まさしげ)と正国(まさくに)も内応しているのではないかと」
「屋代はそれがしの家宰(かさい)ぞ! なにゆえ、この身を裏切り、武田に寝返る?」
「……わ、わかりませぬ」
「おのれ、どこまでも、この身を虚仮(こけ)にしよって!」
 村上義清は片膝になり、何度も板間を踏みつける。
「殿、もしも、室賀と屋代がまことに武田へ寝返ったのならば、この葛尾城は三方から囲まれており、すでに退路さえ危うくなっておりまする」
 出浦国則が冷静な口調で言う。
 それを聞き、村上義清が酔眼を細める。
 ――砥石城を奪(と)られただけで、余がここまで真田に追い詰められるとは……。しつこい滋野(しげの)の奴ばらめが。されど、まだ、知られておらぬ退路はある。
「出浦、兵をまとめ、撤退の支度をいたせ。いったん、この城は捨てる。されど、ただでは武田に渡さぬ」
「承知いたしました」
 出浦国則が頷く。
「必ず、眼にもの見せてくれるわ」
 村上義清が吐き捨てた。
 そして、村上勢は葛尾城を捨て、城兵も含めて忽然(こつぜん)と姿を消す。それが天文二十二年(一五五三)四月九日のことだった。
 発端はこの一ヶ月前に、真田幸綱が密かに村上方の大須賀久兵衛尉(くへえのじょう)を調略し、寝返らせたことにある。
 大須賀久兵衛尉は埴科郡坂木網掛(あみかけ)の狐落(こらく)城を急襲し、城将の小島(こじま)兵庫助(ひょうごのすけ)をはじめとする三兄弟を討ち取り、これを手宮笥(てみやげ)に武田家へ降った。
 狐落城は千曲川(ちくまがわ)を挟んで葛尾城と一里(約四`)ほどしか離れておらず、まさに村上義清の喉元にある支城(ささえじろ)だった。
 さらに笹洞(ささら)城(室賀(むろが)城)の室賀信俊と満正(みつまさ)の親子、荒砥城の屋代正重と正国の親子が、立て続けに武田家へ寝返った。
 笹洞城は大須賀久兵衛尉が奪った狐落城の南西にあり、荒砥城は葛尾城の北西に位置している。まさに村上義清の本拠を南、西、北の三方から包囲する形になっていた。
 これは真田幸綱が一年以上をかけて進めた入念な工作だった。
 この謀略が成功し、村上方の重臣だった者たちは武田勢の先鋒(せんぽう)となり、葛尾城の攻略に向かった。義清にとっては、まさかの出来事である。
 その裏で、武田晴信は別の動きをしていた。
 大須賀久兵衛尉の寝返りと呼応するように、武田勢は深志城を進発し、松本平の苅谷原(かりやはら)城に攻め入る。城将の太田(おおた)資忠(すけただ)が討死にし、苅谷原城が落ちると、その夕刻には北側に位置する塔ノ原(とうのはら)城も降伏した。
 武田勢は進軍を緩めず、翌日、虚空蔵山(こくぞうさん)の会田(あいだ)城(虚空蔵山城)へ攻め寄せ、城主の会田幸久(ゆきひさ)が降伏する。武田晴信は埴科郡の裏側から次々と村上方の城を落とし、義清を完全に追い詰めようとしていた。
 こうした状況を見て、村上義清はあっさりと葛尾城を捨てる。
 出浦国則をはじめとし、わずかな手勢を連れて城の裏手から逃れ、曲がりくねった山中の岨道(そわみち)を使って地蔵(じぞう)峠へと出た。これが隠しておいた退路だった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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