よみもの・連載

軍都と色街

第五章 千歳

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 私の幼少期、昭和五十年代は、テレビでも普通に差別表現が使われていた。マイノリティーの人からしてみれば、生きづらい時代だったのだろう。私は二十年ほど前から、取材で海外に出るようになったが、南米の街を歩けば、東洋人を侮蔑する「チーノ」という単語がどこからともなく飛んできた。それは不快で堪(たま)らなかった。松原さんは自身が生まれ育った国で、そうした思いを幼少期から感じていた。日々、ものすごいストレスだったことだろう。
「学校行くのが嫌になったりしましたか?」
「それは嫌になりましたけどね。でも、今と違って、隣近所のおばちゃんとか、そういう人が声かけてくれたりしたので、昔ながらの近所づきあいがあったので、それが救いになりました。だから学校は行ってましたね」
「小学校から中学校にかけて、アイデンティティーというか、私は一体何人なのかなとか、そういうことを思ったりしましたか?」
「いや、父親の記憶も少しはあったし、まあ、母親がいろいろ言ってくれました。やっぱり教育の仕方ですよね。『おまえは立派なんだよ。恥ずかしくないんだよ』というようなことを言われたので、それが支えになりましたね」
「お父さんは何歳で亡くなられたんですか?」
「母親より二つ上とか何とかって言っていたので、三十八歳ですね」
「昭和六年の生まれだったんですね。じゃ、朝鮮戦争とかも行かれていたんですね?」
「戦争へ行ったって言ってましたね。何戦争かわかりませんけど。母親からそう聞いています。昭和六年の生まれだと、大東亜戦争じゃないですね」
「お父様とお母様の出会いというのは、どんなきっかけだったか聞いていらっしゃいますか?」
「いや、何かお店で、進駐軍がいるところに母親が働きに、バイトか何かで行ってて、それで知り合ったんです。その場所は確か横須賀か横浜だったと思います」
 私はここでもう一歩踏み込んだ質問をしたかった。それは、母親の具体的な職業についてである。店といっても様々な店がある。この取材のテーマが軍都と色街ということもあり、松原さんの母親は娼婦だったのか、はっきりさせる必要があると思った。私は次の質問を口に出す前にしばし逡巡した。当然だが二人が出会ったのは、松原さんが生まれる前のことであり、母親が娼婦だったとしても、子どもにそんなことは話さないだろう。松原さんも私が何を聞きたいのか、薄々察しているようにも思えた。
 私は松原さんの表情を見て、質問を口にするのをやめた。東京出身の彼女が、横浜や横須賀に働きに出ているということは、米軍基地という経済装置に引き寄せられたからである。この連載で最初に取り上げた横須賀には、多くのパンパンと呼ばれた娼婦たちが流れ込み、戦場に送り込まれる米兵たちは派手に金を使った。少なくとも、松原さんの両親は、狂乱の空気に満ちた街で出会い、結ばれた。今話を聞いている松原さんは、そうした軍都を象徴する存在と言っても差し支えあるまい。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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