よみもの・連載

軍都と色街

第四章 知覧・鹿屋

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 最後に鹿屋の色街の流れを振り返っておきたい。戦前に青木町に色街が形成され、戦後の売春防止法まで続いた。その後、市内の一角には、一階がカウンターバーで二階に二畳ほどの部屋がある売春バーや立ちんぼなどが客を連れ込む旅館などが、点在していた。売春バーや旅館は今では営業していないが、建物はそのまま残っている。
 色街のルーツは日本軍からはじまり、米軍へと引き継がれ、廃(すた)れていき今日へと至るのだった。
 特攻隊員の中にも、遊廓に足を運び、娼婦を抱いたものもいただろう。そして、米兵もまたしかり。遊廓は死に行く者や太平洋の戦場を生き抜いて日本に上陸し、生を実感する者たちを受け入れてきた。
 武器を手にして、命のやり取りをした者たちも、遊廓という場所では、服を脱ぎ捨て、ひとりの人間となり、平たく扱われる。男たちは等しく一匹のオスになる。それは、社会の属性や階級、さらには時空をも超えて、男が自由になれるアジール(聖域)ということである。その一方で、遊廓は時の権力者の手の平の上にあるものであり、男たちを社会の歯車のひとつとして管理する装置ともいえる。
 旅の終わりに消えた青木町遊廓の場所を改めて訪ねてみた。これまで、私は遊廓や色街が消えることに関して、どちらかと言うと、環境浄化を旗印にした行政の横暴だという見方をしてきた。ところが、この鹿屋を訪ねて新たな気持ちが湧いてきた。
 イスラム教とキリスト教の宗教対立、アフリカやロシアにおける民族紛争など、世の中に争いの火種は絶えることはない。日本も七十五年前には、アメリカとアジア・太平洋の覇権を争った。荒ぶる者たちの気持ちを鎮めるものとして遊廓が利用された。焦土となった後、高度経済成長期には、接待や買春旅行などで日本だけではなく、東南アジアの色街も大いに利用された。この国において色街は常に政治と経済の循環の中にあった。昨今、戦争は遠のき、平和ボケだと時に世界から蔑(さげす)まれ、経済は年々縮小し、猛烈に働いて色街で散財することなど、過去のこととなった。そして、男と女というジェンダーの壁も年々曖昧になっている。
 新たな気持ちとは、色街が消えるということは、色街の原動力となった軍隊も法律上は存在せず、経済も沈みゆくこの日本において必然の流れであり、致し方ないことなのではないかということだ。
 このような思いを吐露しつつも、まだ心のどこかに色街がいつまでも続いて欲しいという思いもある。今となっては、木の塀もなく、ただの住宅地となった味気もない青木町遊廓跡は、多くの示唆を私に与えてくれたのだった。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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