よみもの・連載

吉原べっぴん手控え帳

第一話 金泥の櫛(くし)

島村洋子Yoko Shimamura

   六

 下っ端の梅香(うめか)は勤めだしてまだ三月(みつき)である。
 実の妹のお絹(きぬ)も同時に売られたのだが、違う店に入った。
 華やかな毎日だったが楽しいことはひとつもない。
 しかし米の飯を毎日食べられるところがこの世にあるのが信じられなかった。米の飯が今日も食べられると思うとつらいことでも耐えられたのだ。
 そんな頃、さる老舗(しにせ)の若旦那や腕の良い職人などが客につき始め、梅香は自分もこの道でやっていけるのではないかと感じ始めた。
 借金は全く減る様子もなかったが、それでも少しずつ人気が出れば完済できる日も早くなると心強かった。
 梅香は今年十七で女郎としてはこれからというところである。
「これは内緒だよ」と店の主人にもらった一対の櫛と笄も嬉しく、特別におまえは見込みがあるからと言われた梅香は舞い上がっていた。
 黒い漆に金泥で菊が描かれている見事なものだった。
「ありがとうございます。大事にします」と店の主人に頭を下げ、すぐに髪に挿そうとした梅香だったが陽(ひ)の当たるところでもう一回菊の柄を見てみようと思い、ためつすがめつしているうちに気づいたことがあった。
「これをおまえにやろうと思うんだ」と何日か前に主人の春日屋幸兵衛に見せられたあの時のものと違う。
 これは安物ではないか。
 梅香は漆職人の娘だった。
 腕の良かった父親は評判の職人で、漆の一滴にもこだわりを持っていて、自らあちこち遠いところまで行って取ってきていたのだが、山で怪我(けが)をしてしまい、肝心の右手の具合が思わしくなかった。
 そんな頃に折悪しく、母が重い病にかかってしまい、薬だ医者だといろいろと借金ができた長わずらいの挙句に死んでしまった。
 それからの父親は荒れる一方で酒浸りとなり、暮らしも立ち行かないので二人の娘が売られることとなったのだった。
 ほかのことには知識のない梅香だったが、門前の小僧で漆についての目だけは肥えていた。
 しかし春日屋という吉原でも大店中の大店の店主がいくら店の女郎とはいえ、人に与えるものを偽物にすりかえるということなどあるだろうか。
 これと見込んだ女郎に頑張れよと励ますために渡すものをわざわざ偽物にするだろうか。
 幸兵衛に直接問いただすこともできなかったので、梅香はしばらくそれを頭につけずに過ごした。
 自分の手鏡などをしまっている小間物入れに入れたまま、時間とともにその櫛と笄のことを忘れてしまっていたのである。
 たまにすれ違うほかの女郎の頭を見るたび、自分が店主から渡されたものに似ている櫛があるなと思わないでもなかった。
 とはいえ流行りのものはみんな似ているのかもしれないとも思った。
 もらったことを秘密にせよ、と言われていたため誰かに尋ねるわけにもいかなかった。

プロフィール

島村洋子(しまむらようこ) 1964年大阪府生まれ。帝塚山学院短期大学卒業。1985年「独楽」で第6回コバルト・ノベル大賞を受賞し、作家デビュー。『家族善哉』『野球小僧』『バブルを抱きしめて』など著書多数。

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