第一話 金泥の櫛(くし)
島村洋子Yoko Shimamura
十九
それからの瓦版はまたいろいろな事件を報じたが、もうお歯黒どぶの土左衛門の話は載っていなかった。
あれが吉蔵という塗安の弟子だったかどうかいまだ定かではない。
龍田川はいつもまいるお稲荷(いなり)の帰り、空を見上げて龍神に話しかけた。
「龍神さま、あれはいったい誰なのですか。なぜあの偽物の櫛を持っていたのですか。お教えくださいまし」
と。
しかし空は静まり返っている。
部屋に戻る道々考えた。
なんで春日屋の店主はそんなしみったれたことをしたのだろう。若い女郎を励ます方法は他にもいろいろ持っているだろうが、わざわざ偽物を大量に作ってまで贈り物をしなくてもいいだろうに。
しかも出世の手段すらないような階層の女郎ばかりに。例えば自分のように花魁になれるかもしれない女には渡さないのか……、ああ、そうか。
龍田川は少し店主の意図がわかったような気がした。
これが本物かどうか見極める力も見ているのか。
ただのお慰みで終わる女かどうかためしているのかもしれない、と龍田川は想像した。
吉蔵だろうと思われるあばた面の中年男が暗闇で女と語りあっている。
小柄で色気のある……梅香だった。
吉原ではひとつの店で贔屓の女郎が決まったら他の女郎を呼ぶことはご法度である。
一度、相手がお美弥と決まればお美弥が店を変わるか死ぬかしない限り、その男はお美弥を呼び続けなければならない。揉め事を防止するための昔からの深い知恵である。
「女に惚れて振られちまうより、師匠に惚れて振られちまうほうが何倍もつれえし、いい女が落ちぶれていくのもつれえけど自分がこれと見込んだ師匠が落ちぶれていくほうがせつねえよ」
とあばたの男は梅香に言ったのかもしれない。
梅香は深くうなずき、
「これを」
と自分が手にした櫛を吉蔵に渡した。
「全部、集めるのは時間がかかると思いますけどお嬢さん、待っててくださいよ。いくらなんでもこんなものが出回っちゃ腕利き塗安の名折れですから」
吉蔵はかつての師匠の娘である梅香を金で抱くようなことはできなかったのだ、だからこうしてこっそりと会っていたのだと龍田川は思った。
それから吉蔵が自分で金泥を塗りあの櫛と同じものを作り出した。
簡単な粗悪の材料ではない。
そうか吉蔵は女郎たちに渡された櫛と笄を本物の丁寧な作品にして気づかないうちに交換しようとしていたのだ、梅香の手を借りて。
清吉が言っていた分量を間違えた油屋と同じである。
誇り高い商人や職人は決して粗悪なものを市中に出回らせないのだ。
そして暗い土手を歩いて行く吉蔵が見える。
懐には櫛を抱いている。
時々は師匠のところへも行き、小銭も置いて行った光景も龍田川には幻燈(げんとう)のように見える気がした。
櫛を懐に抱き、育ててくれた師匠への恩とその娘たちへの愛情で彼はひたすら生きていた。
小石につまずきお歯黒どぶに落下して行くその瞬間まで、ひたすらに。
梅香は父の名折れになることは誰にも話さなかったことになる。
それは父の恥だけではなく偽物を作らせた春日屋の主人幸兵衛の恥になることも避けたのかもしれない。
梅香は幼い時の楽しく豊かだった思い出にもつながる吉蔵の行為をありがたくもったいなく思い、もう会えない父の様子を吉蔵から聞いていたのだろうか。
どうあれこれで梅香と実家をつなぐ糸が切れたことになる。
売られた身としてはもうあきらめたこととはいえ、つらいことだろう。
龍田川は息をついた。
- プロフィール
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島村洋子(しまむらようこ) 1964年大阪府生まれ。帝塚山学院短期大学卒業。1985年「独楽」で第6回コバルト・ノベル大賞を受賞し、作家デビュー。『家族善哉』『野球小僧』『バブルを抱きしめて』など著書多数。