よみもの・連載

軍都と色街

第八章 津田沼 中国 ビルマ

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 小学校から中学校に入学する頃になると、祖父から戦争話を聞く機会もほとんどなくなっていった。太平洋戦争の様々な側面を知るようになり、日本軍を絶対善とする祖父の話に疑問を持つようになったことが大きかったと思う。祖父は戦前の日本政府の国策に対して、何の疑問も持っておらず、戦後の日本の政治については快く思っていなかった。

 無邪気に戦争の話を聞いていた頃、祖父とはテレビで放映されていた戦争映画も一緒によく見た。はっきりと覚えているのが、『戦場にかける橋』だった。一九五七(昭和三十二)年に公開されると、第三十回アカデミー賞作品賞を受賞するなど、世界的に知られた作品だ。
 その映画を見ている最中、祖父はぼそりと、「連合軍の兵士は働かないんだ」と呟いたぐらいで、それ以上のことはあまり多くを語らず、ほとんど黙って画面を見ていた。映画では、連合国側の捕虜たちを使役する日本軍は、どうしても悪役となるだけに、祖父には思うところがあったのかもしれない。
『戦場にかける橋』の主な舞台となったのは、一九四二(昭和十七)年に建設がはじまったタイとビルマを結ぶ泰緬(たいめん)鉄道のタイ側に架(か)かるクウェー川鉄橋である。
 泰緬鉄道の建設工事は、一九四二年七月にタイ側、六月にビルマ側から工事がはじまった。建設には、日本軍が一万二千人、連合国軍の捕虜六万二千人、タイの労働者数万人、ビルマの労働者十八万人、さらにはマレーシアやインドネシア人労働者十二万五千人が携わったが、過酷な労働により九万人以上が命を落とした。
 泰緬鉄道の建設は、一九二〇年代にビルマを植民地としていたイギリスが計画していたが、ジャングルを切り開く難工事が予想されたため断念していた。当然ながら日本軍もその事実を知っていただろうが、戦争遂行のために、海上輸送ではなく鉄道輸送が必要とされたため、無理を承知で建設に取り掛かったのだった。しかも、五年の年月が必要といわれていたのを、わずか一年三ヶ月ほどで完成させた突貫工事の代償として、捕虜や労働者の多くの命が失われたのだった。
 祖父は鉄道連隊に籍を置いていた、と言っていたこともあり、『戦場にかける橋』を見た際に、この工事に関わったのかと尋ねた。
「ビルマには行ったんだよ」
 返ってきたのは、工事に関わったかどうか、肯定も否定もしない何とも曖昧な答えだったが、ビルマでの戦闘については、笑顔で饒舌(じょうぜつ)に語った。日本軍は勇敢で、イギリス軍はいい武器を持っているのに弱かったこと、ビルマ人はあまり仕事をしない怠け者だったことなどで、彼らに比べると日本軍は優秀だったというのが祖父の見解だった。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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