よみもの・連載

軍都と色街

第八章 津田沼 中国 ビルマ

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 日本に戻った祖父は、神奈川県横浜市戸塚区の平戸町という土地で祖母と暮らした。その場所はJR東戸塚駅から歩いて十五分ほどの距離にあって、周辺は現在ショッピングモールや高層マンションが建つベッドタウンになっているが、当時は水田が広がる田園地帯だった。
 農家の次男坊だった祖父は、大橋新太郎の養鶏場で働きながら貯蓄もし、生家からほど近い山谷という土地に山を買った。戦争が終わったらそこで自分で養鶏場をやる計画を立てていたという。ところが、戦後の農地改革で祖父が買った山は取り上げられてしまった。
 生前、戦争の話だけではなく、山を取り上げられた話を何度もしてくれた。今では宅地となっているその山の前を通るたびに祖父が言った。
「何でおらがの山を取り上げることがあったのかな。本家は地主だったけど、この山は金を貯めて自分で買ったもんだった。意地悪されたんだよ。取り上げたのが、社会党の連中だったから、絶対に選挙では社会党には入れないんだ」
 言葉を荒らげるわけではなく、何となく苦虫を噛み潰したような顔で話す姿が、今も心の中に残っている。私が幼いころもそこは農地ではなく、クワガタやカブトムシがいる雑木林だった。祖父の言うことも納得できた。農地改革は、戦前の農村に約七割いた小作農を四割に減らすという優れた改革だと私は思うが、一部の人間には受け入れ難い側面もあった。そのひとりが祖父だったのではないか。
 祖父は、戦争で辛酸を舐めたにもかかわらず、勝てる戦争だったと言って憚(はばか)ることがなかっただけではなく、戦前の日本の姿を賛美しているところがあった。その背景には、戦後の農地改革によって受けた傷というのも影響していたのかもしれない。
 祖父が戦争の話をしてくれた一方で、祖母は戦時下のことについては、一切何も話してくれなかった。小学校四年生の頃、戦争の時はどんな暮らしだったのか、尋ねてみると、手の平を顔の前で左右に振りながら、「そんな話はいいんだよ」と言って、露骨にいやな顔をしてその話題には触れたがらなかった。
 祖母は、のんびりした性格で、いつも縁側に座って庭を眺めているような穏やかな人だった。私が振った話題で、嫌悪感を表情に出したのは戦争の話だけだった。
 祖母がそんな態度を取った理由を知ったのは、後年のことだった。父が話してくれたのだが、祖父が出征中、父の兄を病気で亡くしていた。生きていれば私にとって伯父にあたる人物である。終戦からしばらくして、祖父が復員すると、戦争の匂いがする軍服や手帳など、すべてのものを燃やしてしまったという。銃後に生きた祖母には、戦争は憎しみの対象でしかなかった。
 軍人軍属三百万人が戦病死しただけではなく、銃後の日本も空襲や食糧難などで病を患い、命を落とす者が絶えなかった。命を落とした者の何倍以上の人々が慟哭しただろうか。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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