よみもの・連載

軍都と色街

第八章 津田沼 中国 ビルマ

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 それを要約すると、船橋に宿を取った十返舎一九は、宿のあるじから八兵衛はどうですかと聞かれ、何のことかと尋ねると、遊女をここではそう呼ぶと言われた。実際に八兵衛が現れると、異様な髪形に垢(あか)のついた広袖を着て、紺色の足袋をはいていて、遊女とは思えないようながっしりとした姿なので、驚いたのだった。
 娼婦のこととは思えない、男の名である八兵衛という名称もユニークだ。その由来は、娼婦たちが、語尾に「べぇ」とつけたことにあった。「べぇ」と語尾につけるのは、私が生まれ育った神奈川県の横浜でも同じで、神奈川や千葉の方言である。歯切れよく話す江戸っ子からしてみれば、何とも田舎臭く聞こえたのかもしれない。船橋宿の娼婦たちが地元の女たちだったことも意味している。

 江戸時代に大いに発展した船橋宿であったが、明治時代になると大きな転機が訪れる。街道沿いにあった宿場の宿命ともいえるもので、明治時代に入って鉄道網が整備されたことで、街道は寂れ飯盛り旅籠には閑古鳥が鳴くようになったのだ。千葉県の場合は、利根川の水運を利用して江戸と繋がっていたこともあり、水運業者などの抵抗で各地より遅れ、開通したのは一八九四(明治二十七)年のことだった。鉄道が結果的に認可された背景には、総武鉄道株式会社が、陸軍の駐屯地のあった津田沼や佐倉を通るルートで計画を申請したことにあった。
 一八九四年に勃発した日清戦争では、実際に、鉄道が軍隊の輸送に利用されたこともあり、東は都内の本所、西は銚子まで数年のうちに延伸したのだった。
 旅籠は、明治から大正にかけて数を減らしていったが、明治末期の一九〇八(明治四十一)年、津田沼に鉄道大隊が置かれ、一九一八(大正七)年には鉄道第二連隊に昇格して規模を拡大した。休日ともなると、船橋の色街には兵隊たちが訪れるようになり、こうして色街は、鉄道によって寂れ、鉄道連隊によって息を吹き返したのだった。
 船橋の色街は、市の中心部にあったが、一九二六(大正十五)年に県の命令で、駅から十分ほど歩いた場所にある海神に移転することとなった。その場所は新地遊廓と呼ばれ、一九二八(昭和三)年に開業したのだった。 
 新地遊廓は、同年末に十二軒、娼妓五十五人で始まり、祖父が現役兵として入営した翌年には十九軒八十五人となって次第に増えていった。
 現役兵が色街に行くことは、古参兵に睨まれてほとんどできなかったというから、船橋で遊んだかどうかは定かではないが、間違いなく船橋に色街があったことは知っていただろう。

 船橋の新地遊廓は、戦前、戦後と営業を続け、売春防止法が完全施行された一九五八(昭和三十三)年まで存在した。私は、遊廓の姿は目にしていないが、これまた不思議な話で、遊廓のあった場所には、その後、若松劇場というストリップ劇場があって、踊り子たちの取材で知らずに何度も足を運んでいたのだった。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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